ケイヤク結婚
 ズカズカと理沙が近づいてきたと思ったら、俺は左頬を思い切り引っ叩かれた。

 パチンっと乾いた音が、脳内に響いた。

「お兄ちゃんは、こういうことしないと思ってた。ううん、お兄ちゃんだからこそ、絶対にしないと信じてたのに。最低よ」

 理沙がもう一度手を振り上げたとき、俺は理沙の手首を掴んだ。

「何をどう、勘違いしているか知らないが」

 一度、言葉を止めてから綾乃さんに視線を送る。

 驚きながらも、意外と冷静に俺の姿を見ていた。

 ある程度、予測はついている……ということなのか。それとも新垣との経験から、あまり動揺を見せないのか。

「俺は仕事中だ。取引先から、会社に戻る途中だった」

「仕事だろうが、何だろうが関係ない。綾乃さん以外の人と腕を組んで歩くなんて信じられない。しかも、今日は水曜日だよ! ドレスを見に行く約束なのに。お兄ちゃんなんて、風邪でもひいて、そこら辺に倒れて、商談の一つ二つ、ダメになっちゃえばいいのよ」

 理沙が『フン』と鼻を鳴らすと、俺に背を向けた。

「綾乃さん、いこ! この際だから、新垣とお茶くらいしても罰は当たらないわ」

 理沙が綾乃さんの腕を掴むと、スタスタと歩き始めた。

「完全に誤解されちゃったみたいね。私には嬉しいことだけど……平気?」

 ゆかりが、スッと俺から離れてから質問した。

 最初から「契約」という結婚なんだから。別に、女と並んで歩いていたくらいで、騒がれても……と思う反面、綾乃さんに誤解されてて欲しくないって思う心もある。

 綾乃さんは、今の俺を見てどう考えているのかを知りたい。

 先日、俺のほうから冷たくしておいて、今さらって感じだけど、な。

 今日のドレス選びだって、綾乃さんからきちんとメールを貰っておいて、返事もせず、ドタキャンした。

 理沙の言うとおり、俺は最低だな。だけど、俺にどうしろって言うんだよ。

 恋はしない。好きな女は作らない。親父のような人生なんてまっぴら御免だ。

 そうやって心に誓って生きてきた。

 そんな俺が、綾乃さんに惹かれ始めてるって気付いて……。

 自分自身がわからないっていうのに。俺にどうしろって言うんだ。

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