リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
「ホントに、効果抜群の印籠だったわねえ」

休憩後の静かな打ち合わせを思い出した明子も、沼田につられたように笑い声をあげた。


(今日だけは、牧野様々と、そう呼んであげるわ)
(牧野メ)


明子は楽しそうに笑い続けた。

沼田の言うとおり、戻ってきた一団の中に若手の社員たちは姿はなく、その数は半分以下になっていた。
急ぎの仕事が入りましてと、数名の社員たちが退席したことを告げる沢木に、明子は畏まりましたと答え、中断していた作業を再開させた。


頬を緩ませ打ち合わせの様子を思い返していた明子は、気を取り直すように息を吐くと、帰社してからの予定を組み立てていく。

「小杉さん」
「はい?」

信号で止まったタンミングで、沼田が少し改まったような声で小杉に話しかけてきた。
ちらりと、明子が沼田の方に目を向けると、少し緊張した様子の沼田が、呼吸を整えるように深呼吸して、話し出した。

「盥回し云々の話は、僕も、聞いたことあります。木村は怒ってました。一緒に仕事したこともないくせにって。すげーのに。女版牧野課長なのにって」
「それは、勘弁。私、これでもまだ、一応、嫁に行くことは諦めてないの。ああなったら、嫁にも行けない」

女版牧野の言葉に、いやーっと悲鳴を上げた明子は、空気が抜け萎れた風船のように打ちひしがれた姿になった。
そんな明子に、沼田はにこりともすることなく、こう続けた。

「小杉さん、自分はダメって言いましたけど、そんなことないです」

きっぱりとした口調で、沼田はそう言う。

「木村じゃないけど。すげーって。隣でずっと叫んでました。僕」

沼田の言葉に明子はぱちくりと瞬きをして、照れたように顔をくしゃりとさせた。

「休憩のとき、手、組んだじゃないですか。あのとき、手のひら、汗でびっしょりになってるの見えて」
「実は超小心者なのが、バレちゃったわね」
「もっと。すげーって。思いました。ホントは、怖くて逃げたくて。でも、胸張って、笑ってたんだなって」
「声も震えそうだったのよ、ホントは」

えへへと、イタズラが見つかった子どものように笑う明子に、沼田は決意表明でもするように告げた。

「木曜日の」
「うん」
「木曜日の打ち合わせ。僕も、頑張ります。足引っ張るだけかもしれないけど。データの分析結果、僕が、説明します。多分、ボロボロで、みっともないことになると思いますけど、やってみます。やらせてください」

それは、きっと、沼田の中にある勇気全てを絞り集めての宣言なのだと判った明子は、お願いしますと居住まいを正して、ぺこりと頭を下げた。
明子の目に映った沼田の横顔は、少しだけ逞しくなったような笑顔だった。

信号が変わり、また、車は走り出した。
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