リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
『牧野です。夜分にすいません』

辺りを窺っているようなその話し方から察するに、静かな場所で電話しているらしい。
背後からの喧騒が全くなく、牧野は声を潜めるように話していた。
おそらく、まだ客先なのだろう。
煙草を吸いに外にでも出てきたのかもしれない。
夜の暗闇の中、壁にもたれて静かに咥え煙草を煙らせている牧野の姿が、明子の脳裏に浮かんだ。

かなりよそ行きのその声には、僅かではあるけれど、疲労の色が滲んでいるように、明子には感じられた。

『今日は、お時間を頂いていたのに、すいませんでした。改めて、後日、お時間をください』

簿記の試験の件なら、もう書類は受け取っているのに、まだなにか話があるのかなと、首を捻りながらメッセージを聞き続けた。
牧野が次の言葉を発しようとした瞬間、遠くから、牧野の名を呼ぶ声があった。
課長ーっと、叫んでいるこの声は木村くんねと、明子は思わず笑った。
こんな時間でも、相変わらず、元気な声だった。

『申し訳ありませんが、明日、手伝っていただきたいことがあります。時間がありましたら、会社のほうにきてください』

ふぅっと、明子の口からため息が零れる。


(今月二度目の、休出かぁ)
(まあ、もう十一月だしね)
(年末に向けて、バタバタし始める時期だわね)


明子は携帯電話を耳に押し当てたまま、ソファーにごろりと寝転んだ。
折り返しの電話は求めていないので、ダメなら明日会社に連絡をということなのだろう。
返事が欲しい電話なら、牧野ならば何時でもいいから返事をくれと言うはずだ。


(仕方がない)
(天気が良かったら、お布団を干したかったけれど)
(それは、明後日に変更しよう)
(年末年始は、何かと入り用だしね)
(地道にコツコツ、小金を稼いできますか)


そう自分に言い聞かせ、明子は明日の休日を諦めた。

よろしくお願いしますの声が聞こえ、メッセージは終わりかと思った瞬間。
仕事用ではない牧野の声があった。



-おやすみ


とろりと、媚薬にも似た甘い毒が、明子の耳の奥に流れ込んだ。
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