リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
金曜のように、緊急性の高いトラブルで徹夜になることや、いきなり、遠方の客先への出張を命じられたりすることが、牧野にはよくあった。
即戦力にならない人材を何人も放り込むより、牧野あたりを一人放り込んだほうが、早く片が付くと会社の上の者たちも判っている。だから、彼の今までの上司たちは、火急の案件であればあるほど、牧野を使いたがってきた。本人も、口先では「便利使いしてんじゃねえよ」「人使い荒すぎ」と、ふてたように言いながら、その顔は生き生きとして、嬉々とした様子で火を噴きつつある現場に向かい、仕事をしてきてしまうところがあった。
だから、牧野はそういう事態になりやすい。
そんなときのために、二日、三日分の着替えを入れたボストンバックを牧野は常に車に積んであると言う話を、明子も耳に挟んではいたが、今日、車を借りて、初めてその現物を見た。
あー、これが件のお泊まりセットかなどと、その時は、呑気にそんなことを思いながら眺めていた。

金曜の夜から、風呂にも入っていないのだろう。ましてや、昨夜は雨に濡れて駆け回っていたのだ。
それは、気持ち悪いに違いないと、ようやく、明子もそこに思い至った。


(買い物の荷物と一緒に、持ってきてあげればよかった)
(お風呂だって、沸かしておいてあげればよかった)
(起きたらすぐに、入れたのに)


後悔するように、そんなことを考えながら、小首を傾げて、どうしますかと牧野を見た。
牧野は、一瞬だけ惑いの色をその顔に浮かべ、「いや、もう、帰るよ」と、明子に告げた。

「いつまでもいると邪魔だろ。俺も帰って、洗濯だなんだを片づけねえとな」

帰るよと言われ、明子の心は瞬く間に萎んでいく。
まだ、いてほしいと、萎んでいくその心は呟いていた。
けれど、唇は「そうですか」と、笑いながら答えていた。

「洗濯物、どっさりありそうですね」
「男の一人暮らしだぞ。察しろよ」

牧野も笑いながらそう答え「タオルだけ、貸してくれ」と明子に言う。
お互い、無理に作った笑顔だと、なんとなく気付いていた。
けれど、気付かないふりをして、笑い合っていた。
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