リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
「牧野。俺はお前と心中する気なんぞ、ないぞ」

運転、無理なら代われ。
笹原を後部座席に乗せて走り出した社用車の中で、笹原は茶化すような声で牧野にそう言った。

「大丈夫ですよ。俺だって、相手は選びます」

笹原のいつも通りの声を聞き、牧野はようやく落ち着きを取り戻して「なんで、笹原さんと心中ですか。君島さんが相手だって、それはお断りしますよ」と、いつもの軽口で言い返した。

集中しようと、自分にそう言い聞かせる。

小林にも運転に気をつけろと、そう声を掛けられた。
それで事故など起こしたら、大バカ者の謗りを受ける。
牧野は気を引き締めなおした。

朝からずっと振り回されっぱなしだと、牧野は胸中でそう呟いた。
そろそろ、笹原にどやされるなと思い、どうにかしようと思っていた書類の山を、昔のように片付けてくれていた明子を見て、それだけで心が弾んだ。
朝飯を食っていないと知って、強請る前に差し出されたサンドイッチはどれも美味くて、頬が落ちた。
けれど、島野からのメールを見せられて、弾んでいたはずのその心が一変に萎んだ。
まさかと思いつつ、あの男の女癖の悪さはイヤというほど知っている。
子どもには興味がないと言うだけあって、未成年者に手を出すことはないが、人妻に手を出すことには、躊躇いもなければ罪悪感も抱かない。
そんな男だ。
それでも、自分の気持ちを知っていて明子に手を出すはずはないという自負はあるが、油断はできない。
島野なら嫌がらせていどの悪さなら、むしろ面白がってやりそうだ。
疑う心が、不安を煽った。
それでも気を取り直して、しゃがみ込んだ明子に向けた目が捕らえた、シャツの襟元から覗く胸の谷間に顔がにやけて、すぐに見つけた島野の所有物の証によく似た赤い印に、息を詰まった。
いつもと変わらない顔をしている。
けれど、妙に女を匂わせている雰囲気もあった。
なにかあったのかと思う気持ちと、そんなことあるはずないと思う気持ちで、朝からすでに心がクタクタになっていた。
それでも、君島と小林に茶化され笑われたりしながら、そんな気持ちを切り替えた。

けれど……

『大嫌い』と『お見合い』が、そんな牧野をどん底に突き落とした。
すでに、クタクタだった心はなかなか回復ですぎ、その奈落の底のような場所から、這い上がることができなかった。
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