優しいなんて、もんじゃない
だが、弥生さんが涙を流したのはほんの数秒。直ぐにその涙を手の甲でグイッと拭い。
強い意志の灯った瞳に私を映した。
「私は逃げた方の身だけど。菊の立場も、優…、あんたの立場からしても手放すモンがあるわ。」
「…、」
「手放さなきゃいけないもんが、ね。」
後はあんた次第よ、と少し寂しげに微笑んだ弥生さんに私は小さく頷くことしか出来なかった。
――滝さんと弥生さんの場合。
滝さんが手放さなきゃいけなかったものはきっと弥生さんだけど、弥生さんが先に手を離した。
だから滝さんが将来を、未来を、ピアノを棄てる前に弥生さんは彼から離れ。結果的に滝さんが失ったのは弥生さんという現状だ。
「(…じゃあ、私は…?)」
今の私に、失うモノがあるとすればそれはピアノ?それとも…?
全く解せないけど。
何故か一瞬、あの馬鹿野郎の顔が浮かんで。有り得ないと首を振ってそれを消した。
まず私は、何も手にしていないのだから。あいつを失うなんて選択肢は皆無。