高天原異聞 ~女神の言伝~
その素早さに、美咲は動くことも叫ぶこともできなかった。
両手首に巻き付いた闇が、もの凄い力で美咲をカウンターに引き寄せる。
カウンターに上半身が俯せに倒れ込む。
そのまま左手が背後に引かれて、くるりと身体が反転する。
美咲はカウンターに両手を広げて仰向けで磔られた。
カウンターより低めに設置された仕事用の机に座るような格好で、足は宙に浮いているものの、足首を手首同様闇に戒められ、動くことができない。
あっという間の出来事だった。
腕を起こそうとしても全く動かない。
「暴れても無駄ですよ」
この場にそぐわない穏やかな声がした。
美咲は声の方に顔を向けた。
頭は拘束されていないため、視線の先に男の姿を捉える。
「誰……?」
震える声がもれる。
男の身体の輪郭から、陽炎のように揺らめく神気が見えた。
男は、優しげな顔立ちをしていた。
そして、美しい声をしていた。
「死者は黄泉国で飲み食いすると、現世での記憶が全て消え果てると聞く。女神殿、貴女様もそうなさるがよろしかろう」
男は手に何かを持っていた。
ゆっくりと美咲に近づいてくる。
「これをお食べなさい。そして、懐かしき黄泉国へお戻り召されよ」
口元に当てられる物を、美咲は唇を噛みしめて拒む。
これを口にしてはいけない。
口にしたら、戻されてしまう。
あの暗く寂寥とした死の国へ――
自分のものではない記憶が甦る。