高天原異聞 ~女神の言伝~
側に在るだけで、禍つ霊が感じられた。
堕ちた神は禍つ神威――禍つ霊を容易く扱う。
何故比売神の怒りが自分達に向けられているのかはわからぬが、これだけは言える。
逃げられない。
兄神は絶望とともに悟った。
「……兄上、私から離れて、お逃げください……」
弟神が、兄神の腕から離れようとする。
「無駄だ。そなたの言霊より、私の言霊の方が強い」
比売神のほっそりとした腕が上がり、弟神を指さした。
美しい唇が聞き取れぬほど幽かな言霊を呟いた。
兄神の腕の中で、弟神が苦悶の声を上げた。
「事代!?」
兄神の腕の中で、弟神は喉を掻きむしり、苦しんでいる。
「そなたの言霊は、封じた。私の許しなくその神威を使うことは許さぬ。妹にしたことを考えれば、生きたまま引き裂いて神霊を引きずり出すところだ」
弟神の喉には、呪詛の楔が紋様として刻まれていた。
右手首と左手首にも、同様の紋様が刺青のように絡みついて肌の一部となっている。
強すぎる。
これが、禍つ神の神威なのか。
憎しみで満ちあふれた霊異《くしび》が神気と神威を通して大気に満ちていく。
「お待ちください!! 我々は、太古の女神を黄泉国へ御還ししようとしたまで、それが、何故貴女様の妹比売を傷つけたことになるのですか!?」
美しい比売神が、眉根を寄せた。
「そなたは――そうか、わからぬのか」
ちらりと弟神に視線を移し、比売神は短く、
「許す、伝えよ」
そう言った。
弟神が震える手で兄神の手を掴んだ。
そこから、弱々しい神威が流れ込む。
「なん、だと――」
弟神を通して伝わる事実に、兄神の形相がみるみる変わる。
傷ついた弟神の肩を掴んで問うた。
「何故すぐに伝えなかったのだ!? 私が引き渡したあの男が、日継ぎの御子だったのか!? ならば、この手で八つ裂きにしてくれたものを!!」
怒りで、兄神の神気が揺らめいた。
自分達から豊葦原の中つ国を奪った憎き天津神を手中にしていながら、みすみす荒ぶる神に手渡してしまった。
弟神を救うためとは言え、この手に捕らえていたのに。
「どうして……どうして気づかなかったのだ!! せめて、腕の一本、脚の一本でも引き裂いてやれたら――!!」
自分自身に対する悔しさと怒りで、涙が滲んだ。
兄神の悔しさと怒りに、弟神も涙を零した。
「そうか――そなたたちも、日継ぎの御子を憎む者達か」
不意に、木之花知流比売の神気が揺らいだ。
きっ、と兄神が比売神を見据える。
「当たり前だ!! 我々の豊葦原を奪われたのだぞ!! 豊葦原は国津神のものだ!! 創造神より引き継いだ國造りを成したのは、我が父神ではないか!? 父亡き後は、その末の私と事代が継ぐはずだったのだ、それを――!!」
兄神の言霊を、美しい手を挙げて、比売神は遮った。
麗しい容《かんばせ》が冷酷な笑みを刻む。
「ならば、か弱き女より、憎き男を狙うが良いのだ。そなたたちは間違えたのだ。豊葦原の中つ国を取り戻すのに、黄泉神の力など要らぬ。憎しみや怒りは、正しく向けるがいい。ならば、私もそなたたちに力を貸そう」
禍つ霊が、いっそう揺らめく。
堕ちた女神の、なんと麗しく、淫靡な妖しさか。
目が放せない。
「この豊葦原は国津神のもの――黄泉神にも、天津神にも渡さぬ」