高天原異聞 ~女神の言伝~
「何をしに来た――」
立ち上がり、硬い声音で母神――須勢理比売は問うた。
「相談に来ましたの。黄泉神などと手を結ばれては困りますから」
「そなたに根の堅州国に入ることを許した憶えはない。疾く去れ」
比売神が美しい唇を笑みの形にする。
「これは異な事。まるで根の堅州国の主のよう。統治者であることを拒まれたのは御身のはずですのに」
そうだ。拒んだのは自分だ。
ここで暮らしていいと言ってくれた夫を唆し、神器を父から奪い、豊葦原へ逃げた。
己貴様――美しい豊葦原で、貴方と一緒に幸せになれるはずだった。
愚かな夢を見た。
その報いを、今受けているのか。
「――そなたになど、私の気持ちはわからぬ」
夫が別の女神を妻に迎えるのを、黙ってみているしかなかった自分。
豊葦原を争いなく治めるために、有力な国津神の娘神を娶ることが必要だったとしても。
須勢理比売は傷ついていた。
夫がいくら戻ってきて愛を囁いても、いつしか信じられなくなった。
こんなことなら、豊葦原に来なければ良かったのか?
それでも。
豊葦原は美しかった。
光と美しい色に満ちあふれ、命の息吹を感じた。
夫を失っても、自分にはまだこの国があると思えば、寂しさも慰められた。
だが、天津神に国を奪われ、結局、根の堅州国に戻ってきた。
自分に残っているものは、我が子以外、もう何もない。
「裏切られた者の気持ちならわかります。私は――禍つ霊ですから」
堕ちた比売神。
天津神に裏切られた妹比売の為に、彼女は禍つ霊となったのだ。
国津神が愛して止まなかった二柱の女神の生き残り。
山津見の国津神は、比売神に従った。
禍つ霊であっても、彼らに残された愛しい女神であったから。
「相談とは何だ。事代にこのような呪詛を施して、よくもそのようなことが言えたな」
「仕方ありませぬ。その者は私の妹比売を傷つけた。復讐の矛先を違えたのはそちらですから」
「そなたの妹比売を? どういうことだ」
「――事代は、天孫の日嗣の御子とその妻である妹比売を見つけたのです」
建御名方の言霊に、須勢理比売が驚いて事代を振り返る。
「真か、事代?」
「はい……間違えたのです。我々は太古の女神だと思っておりました。深く探るまでわからなかったのです」
「して、日嗣の御子に、一矢報いたのか?」
「いいえ……それが、私の失態です……」
唇を噛みしめる事代に、須勢理比売は失望の色を隠せなかった。
「だからこそ、私が来たのです」
比売神が妖艶に微笑む。
「須勢理様。私達の敵は同じ――日嗣の御子です。一矢報いる時ですわ」
その笑みは、抗いがたい誘惑だった。
そして須勢理比売は、抗う理由をすでに持ってはいなかった。