高天原異聞 ~女神の言伝~
5 太陽の女神
建速は、腕の中で美咲が崩れ落ちるのを留めた。
膝をつき、意識のない身体を抱きかかえる。
「建速様!」
先ほどの異変に、すでに車を降りていた男が駆け寄ってくる。
「葺根《ふきね》、美咲を車に」
建速から美咲を受け取ると、葺根と呼ばれた随神は美咲を車の後部座席に横たえる。
静かにドアを閉めたところで、異変が起こる。
白み始めた空が、不自然に光量を増していく。
夜明けにはまだ早いはずだった。
空を見上げた葺根は、建速を見た。
「建速様、この光は――」
「葺根、目を閉じていろ。憑坐には強すぎる」
建速の言霊が終わらぬうちに、光はその光量により、全ての視界を白く染め上げた。
だが、この凄まじい光量の中でも、建速は目を逸らすことなく、一点を見据える。
「天照――」
静かに呟いた彼の声音は、微笑っているようにもとれた。
その白く異質な空間には、三者しか存在しなかった。
強すぎる光に目を閉じて動けない葺根。
荒ぶる神である建速。
そして。
光り輝く、太陽の化身。
この豊葦原から全ての神話が否定されようとも未だ信仰される古代神。
天照大御神《あまてらすおおみかみ》。
太陽の女神。
降臨するための憑坐もいらず、そこに在るだけで全てを圧倒する。
衣も裳も比礼も、染み一つない真珠のような光沢の白だ。
横髪を耳の前で髻《みづら》に結い、黄金の髪差しを使いながら残りを複雑な形に結い上げ、それでも余る長く艶やかな黒髪は背から裳裾に及んでいる。
太陽を中心に象った美しい縵《かづら》。
形の良い耳朶を飾る耳輪。
胸元には霊力を秘めた八坂瓊之五百箇御統《やさかにのいおつみすまる》が、美しい澄んだ音を響かせている。
美しい装束よりもなお美しいその容《かんばせ》は、神々しい神気と相まって、見る者の心を奪う。
誰もがその姿を魂に焼き付けたいと願い、同時に、その御前から逃げ出したいと慄《おのの》く。
象牙のように滑らかな肌に、唇の紅が一際映える。
きつい印象を与える切れ長の目は、今は不機嫌そうに建速を見据えている。
「相も変らず美しいな、お前は」
建速の言霊に、いっそう不機嫌そうに太陽の女神は柳眉を寄せる。
「戯言を聞きにきたのではない。建速よ。今生にあっても、まだそなた豊葦原を争乱に巻き込むか」
美しい唇からもれる声音は聞く者をも酔わせる美酒のような響き。
「動いたのは俺じゃない。伊邪那岐だ」
「父上様にはお考えあってのこと。そなたのようなものに父上様の尊いお心がわかるはずもない」
「その伊邪那岐崇拝思考はどうにかした方がいいな、天照。過ぎし世で伊邪那岐がどれほど尊い行いをしたというんだ」
建速は肩を竦める。
「全てを産んだのは伊邪那美だ。伊邪那岐に出来たのは三貴神を現象させただけのこと。それも伊邪那美に逢うことで。
男神独りから成りませる我々は強大な力を持ちながらも不完全に生まれた。荒魂《あらみたま》しか持たぬ俺や和魂《にぎみたま》しか持たぬお前の力が限定され、制約を受けるのは、所詮伊邪那美がいなければ伊邪那岐もまた不完全だということの証にほかなるまい」
荒魂と和魂。
陰と陽。
正と負。
男と女。
全ての存在に両極があるように、神々にもまた魂の両極が存在する。
伊邪那岐と伊邪那美が対の命《みこと》で在ったように、荒魂のみを持った建速と和魂のみを持つ天照もまた対の両極であった。
「荒ぶる神である我々は、己れの定めに従い己れの領域を統治するよう父上様に言い遣わされた筈。それをそなたはきかずに豊葦原に降臨した。己れの領界である大海原に帰るがよい。我ら三貴神の力の均衡が保たれねば、豊葦原は滅びるのだぞ」
「大海原とて豊葦原よ。全ての現象は一つなのだ。俺が大海原にいずとも、現象に変わりはあるまい。事実、俺は今日まで豊葦原に在ったが、未だ滅びてはいない」
「なぜそなたは私に――高天原に何一つ従わない!? そなたの振るまいが全ての現象の元凶となったのだ!!」
「元凶? はきちがえるな、天照。俺ではない。伊邪那岐だ――伊邪那岐の愚かさが、全ての元凶なのだ。俺はその尻拭いをしているに過ぎない」
「――」
慈悲なく言い放つ建速に、天照は返す言霊を探せなかった。
その時。
「天照様!!」
一人の女がその空間に飛び込んできた。