高天原異聞 ~女神の言伝~

 眉根を寄せて、天照がそちらを見やる。
 四十を越えた、細身だがかっちりとしたスーツに身を包んだ憑坐の女が膝をつく。
 日頃抑えていた神気を隠さずにいると、その艶やかさは普段の大人しく地味な司書教諭とは全く異なる人物のようになっていた。

「宇受売《うずめ》か――?」

 天照が驚いたように問う。
 憑坐の人間から放たれる神気は、かつて知ったるもの。
 神代が現世と引き離される前に戻ってきた随伴神の中に、彼女はいなかった。
 随伴神に聞いても、言霊を濁してしかとはわからずにいた。
 だから、すでに神去ったのだと思っていたのだ。

「本来なら御前には到底上がれぬ身なれど、お詫びせねばと罷りこしました」

 頭を垂れたまま、山中――天之宇受売命《あめのうずめのみこと》は言霊を告ぐ。

「瓊瓊杵《ににぎ》のことか」

「御子様を最後まで御護りできませんでした。それ故、神去ることもできす、封じられました」

「そなたの責ではない。私がそなたを責めるとでも? もうよいのだ。宇受売、戻るがいい」

 手を差し伸べる天照に、はっと宇受売は顔を上げる。
 泣き出しそうな顔で手を伸ばしかけ、それでも止めた。

「できませぬ。天照様の許へは、戻れぬのです。私にはまだ、この豊葦原ですべきことが残っておりますゆえ」

「宇受売――」

「宇受売にはまだしてもらわねばならぬことがある。この豊葦原で、護らねばならぬものがある。それが終わるまでは高天原には返せぬ」

 割って入った建速に、天照は鋭い一瞥で応えた。

「そなたの都合など私にはどうでもよい。黄泉国から母上様が消えたことも承知しておる。黄泉神が母上様を取り戻したいというのならくれてやれ。先ほど父上様を連れ去ったのは、黄泉神と手を結んだ根の堅州国の神々であろう。まつろわぬ神々が豊葦原を取り戻すために画策しているのは私にもわかる。父上様の御身と母上様を引き替えにするつもりなのだ。
 母上様は死の女神と成られたのだ。今更覆すことはできぬ。在るべき場所へ還らねばならぬ。父上様もぞ。そのために、天津神も動くであろう」

「伊邪那岐を高天原に、伊邪那美を黄泉国に還す――それがお前の、高天原の望みか」

「そして、そなたは大海原へ――己が支配する領界へ、在るべき場所へ。理が崩壊する前に。全ての神はそうで在らねばならぬ」

「つれないことを。だが、そこがいい。お前は何も変わらんな」

 敵を目の前にする眼差しではなかった。
 懐かしく、嬉しそうに、建速は太陽の女神を見上げる。

「お前の望みはわかった。だが、お前の手足となって働く天津神の憑坐は見つかるか? すでに国津神があらかたの憑坐を手にした後で」

「――そのようなことは思兼《おもいかね》が考える。建速、もう私の邪魔をするな。高天原に背くな。でなければ、三貴神といえども許さぬ。殺すぞ」

「いかに俺を腹立たしく思おうとも、人間のように、そのような醜い言霊を使うな。美しいお前には、美しい言霊のみが相応しい。我々神は、未だ言霊に囚われる。気をつけろ」

 神と違い、言霊はもう人間の御霊を縛らない。
 それは世界が変化したとともに、人間が、誰もそれを意識しなくなったからだ。
 そして、美しい言霊に力がなくなり、悪しき言霊に力が在るのは、善が移ろいやすいものであるからだ。
 言霊の力を忘れた人間の語る真《まこと》のない言霊――言葉を、建速はさんざん耳にしてきた。

 神々の頂点に立つ天照に、そのような穢れた言霊は相応しくない。

 責めるでもなく、淡々と言う建速に、天照は苛立たしげに背を向けた。
 そして、次の瞬間には、全ての白が視界から消えた。
 後には何事もなかったかのような夜明け前の静寂がある。
 先ほどとさほど変わらぬ白み始めた空の下、先ほどまでの風景。
 気を失った美咲を乗せた黒の車。
 傍らには葺根。
 建速と、跪いたままの宇受売。
 揺らめく神気が辛うじて神の気配を留めていた。

「宇受売、ひとまず帰れ」

「……は、申し訳、ございませんでした……勝手な振る舞いを……」

 宇受売は泣いていた。
 先ほどまで天照がいたところを見据えながら。

「よい。すまんな。まだ返してやれんが、全てが終わったら、戻りたいところへ行かせてやる」

「私が望んだのです。この豊葦原に留まることを。私よりも建速様の方がずっとお辛いのに、これしきのことで、申し訳ございません……」

 それでも。
 美しい天津神は太陽の女神の下へ還りたいと思う心も持っていた。

「もうすぐだ。もうすぐ、全てが終わる。それまで、耐えろ――行くぞ、葺根」

 建速は短く告げると、助手席に乗り込んだ。
 車がその場を離れてもなお動かぬ宇受売を残して。
 若き天津神は止めどなく流れる涙を拭いもせずに、太陽の女神の姿を思い浮かべる。
 まさかもう一度、そのお姿を見られるとは、思ってもいなかった。
 豊葦原に降っても、常に思いはあの美しき太陽の女神へと還る。
 封じられていた自分は目覚めるまで、眠っていられた。
 だから、耐えられた。

 待つ身など何ほどのことでもない。

 あの荒ぶる神は、何一つ目を逸らさず、今日この時まで全てを見続けてきたのだから。

 



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