高天原異聞 ~女神の言伝~
6 対の命
目を閉じていた黄泉日狭女は、ふと虚空へと目を向けた。
魂の気配がする。
また、人間の魂が闇の回廊から黄泉国にたどり着いたのだろう。
着いたばかりの死者の魂は、闇をことさら恐れ、落ち着くまでに時間がかかる。
いつものように日狭女は放っておいた。
もう少ししてから、行ってやればよい。
そうして、また目を閉じる。
この黄泉国の暗闇の回廊で成りませる黄泉日狭女にとって、死者が闇を恐れる理由がわからない。
黄泉国の闇は、全てを隠したりはしない。
闇にあっても、望めばすぐその姿を浮かび上がらせる。
だから、闇を灯す明かりなど必要ない。
望み通りに従順な闇は、心地よく日狭女を包む。
死者の話を聞くと、豊葦原の中つ国の『夜』とよばれる闇は違うらしい。
全てを押し隠し、人々はその闇を恐れるという。
だから、闇を追い払うように火を灯し、明るくしないと安心できないらしい。
愚かなことだと思う。
暗闇を恐れるのは、そこに己自身の弱さを見るからだ。
自分の恐怖が闇の中に在るはずのないものを浮かび上がらせる。
心弱い人間達。
かつては神々だったのに。
黄泉返りを繰り返し、神威も神気も失ってしまった。
いなくなってしまった母の代わりに、死者を導く役目を務め、もうどれほどの時が流れたのだろうか。
死者の中に母の御霊を捜しては諦める日々。
人の寿命を考えても永すぎるほどの時を経ても、ただの一度も戻ってこない母は、まさか失われてしまったのか?
「――」
たどり着いた思考に、日狭女は首を横に振って、その考えを追い払った。
そんなはずはない。
するべきことがあると、母は言っていたではないか。
そのためにきっと、母はこの黄泉国から去ったのだ。
そういえば、と日狭女は思い起こす。
豊葦原から来た、母のように産褥で神去ったあの儚げで美しい比売神に会ってから何やら考え込んでいた。
あの比売神も黄泉返ってきたのを見たことがない。
勿論、自分は母を捜すのに忙しかったのだから見逃したのかもしれない。
だが、あのような美しい御霊を見逃すことなどあるだろうか。
美しい比売神は、黄泉返りを拒んでいた。
背の君の心ない仕打ちに傷つきながら、それでも夫を愛していた。
愛する背の君を忘れ、別の男を愛することを頑なに拒み、いっそ御霊ごと消し去って欲しいと希っていた。
母とあの比売神に、何があったのだろう。
母はあの比売神の願いを叶えてやったのか。
物思いにとらわれていた日狭女の耳に、低い声が届いた。
「日狭女」
「闇の主――」
日狭女はすっと膝をついた。
黄泉国を統べる闇の主は、相も変わらず美しい。
「如何致しました? このようなところへ。お珍しい」
本当に、珍しい。
母が去って以来、ここへはぱったりと訪れなくなっていたのに。
「伊邪那美は、どのようにして黄泉から去ったのだ」
不意の問いかけに、眉根を寄せる。
今更何故、そのようなことを聞くのだろう。
「存じませぬ。母上様は私達には何もおっしゃらずに、ただ忽然といなくなってしまわれました。黄泉の領界を統べる闇の主たる御身にもわからぬものを、どうして私ごときにわかりましょう」
苛立たしげに、闇の主は顔を歪めた。
それでも、その容は美しく、魅入られるほどであった。
闇に属する神々は、闇の主を愛するようにできている。
母たる伊邪那美から成りませる黄泉日狭女も、黄泉で産まれた故に例外ではなかった。
だからこそ、手に入らぬものを追い求める美しい闇の主が憐れでならない。
「母上様は、貴方様の対ではない。貴方様の対は別に在らせられる」
「そのような者、どこにもおらぬ」
冷たく言い放ち、闇の主は去っていった。
ほう、っと日狭女は息をついた。
闇の主は頑なに母を求めるが、対の命だけが、その伴侶と成りえるのだ。
母の伴侶は父だけだ。
それが何故、わからぬのだろう。
「母上様、何処におわすのですか――」
闇がその言霊を優しく包み込み、だが、応《いら》えはなかった。