高天原異聞 ~女神の言伝~
夢のない沈黙の中、美咲は目を覚ました。
見慣れた部屋の天井が見える。
「――」
「美咲、気づいたか」
かかる声に、驚いた。
慎也ではない。
美咲はゆっくりと視線を向けた。
ベッドの端に浅く腰掛けて美咲を見下ろしているのは建速だ。
どうして、彼がここに。
「慎也くん……」
いつも傍にいるはずの存在を捜して、視線がさまよう。
そうして、思い出す。
「慎也くん!!」
ベッドから飛び起き、建速にすがる。
「建速、慎也くんは――彼はどこにいるの!? 無事でいるの!?」
不可思議な紋様に囚われて消えた慎也。
それが美咲の見た最後の記憶だ。
宥めるように美咲の顔を覗き込み、優しく告げる。
「落ち着け。連れ去られはしたが、慎也には誰も危害を加えられないようにした。安心しろ」
「本当に?」
「言霊に誓う。信じろ」
「――」
美咲の瞳から涙が零れるのを見て、建速は困ったように息をついた。
「泣くな、美咲。大丈夫だ。慎也は必ず取り戻す。あんたの許に、返してやる」
「た、建速……」
それ以上の言葉を探せず、美咲はぼろぼろと泣いた。
咄嗟に掛け布で涙を拭っても後から後から沸き上がる。
そんな美咲を、建速が引き寄せて優しく抱きしめる。
それは、美咲が知っている慎也とは違う感触で、ますます涙が止まらない。
子どもをあやすように抱き込まれて、美咲は一層慎也を想った。
こんな風に引き離されるなんて、思ってもいなかった。
ずっと一緒にいられると、勘違いしていた。
逢いたい。
心から、願う。
初めて出逢ったときから、いつも、傍にいたかった。
いつも、泣きたくなるほど嬉しかった。
愛しさを隠さず見つめてくれる瞳も。
優しく触れてくれる大きな手も。
甘く好きだとささやく声も。
全部全部、憶えている。
それでも。
こんなに、苦しいほど、今すぐに逢いたい。
離れていたくない。
すぐ近くに、いつも感じていたい。
前世のように引き離さないで。
ようやく一緒にいられるのに。
どれほどの時が経ったのか、泣きやんだ美咲は、ぽつりと呟いた。
「……彼、どこに連れて行かれたの?」
「根の堅州国だ。俺の娘の須勢理が、今は治めている」
「根の堅州国……」
「一説では黄泉の別称と言われているが、根の堅州国は黄泉とは違う。
黄泉へと続く地の門を護る国。
かつて伊邪那美も根の堅州国から黄泉比良坂を通って黄泉国へと降った」
背筋がぞくりと震えた。
黄泉国。
自分が逃げてきたところ。
そのすぐ近くまで、慎也は連れ去られた。
美咲は顔を上げて建速を見た。
「――建速は、根の堅州国に行くのね」
「ああ。この件には、須勢理の息子建御名方とその異母弟の事代主が関わっている。豊葦原を天津神に奪われ、根の堅州国に神逐《かむやら》いされた須勢理は、黄泉神と取引をしたようだ。事代主は、図書館で美咲を襲った男だ」
「!!」
「事代主は言霊を操る神威を持つ。慎也を捕らえた紋様は、事代の神威と禍つ霊の神威が絡みついていた。どうやら、黄泉神だけではない神々が動き出した」
「禍つ霊?」
「悪しき言霊を操る堕ちた神をそう呼ぶ。天津神を呪った木之花知流比売だな」
木之花知流比売。
その名を聞いたとき、美咲の心の奥で、何かがざわりと動いた。
「――」
「美咲、俺が戻るまで待っていられるか? それとも、一緒に来るか?」
真摯な声に、美咲は引き戻される。
「え……?」
「ここで待てるなら、葺根と宇受売を護りにつけていく。もとよりあんたには風と水の神の守護がある。伊邪那美が最初に産んだ国津神は、全てあんたの守護においていく。図書館も休んで、ここにいろ。結界もあるから、闇の主も九十九神も手はだせん」
「一緒に行くなら、建速が護ってくれる? あの夢の中のように」
「ああ、だが、神代の記憶のないあんたには、辛い道行きになるかもしれん――それでも、来るか?」
躊躇いはなかった。
「行くわ――」