高天原異聞 ~女神の言伝~
7 愚かな夢
部屋から月を眺める須勢理比売の前に、暗闇からするりと黄泉神――闇の主が現れた。
「ご機嫌いかがかな、須勢理比売」
「ただでさえ辛気くさい暗闇の国で、そなたの顔を見るともっと悪うなる。失せよ」
不機嫌な須勢理比売の声音に、うっすらと闇の主は微笑った。
「荒ぶる神の最後の娘は根の堅州国に生まれながら、根の堅州国を厭うか」
「そなたこそ、独り神として黄泉国に生まれながら、黄泉国を厭わぬのか」
須勢理比売と闇の主は生まれは似通いながら、異なっていた。
一方は生まれし国から逃れたいと願い、一方は素直に受け入れる。
そしてどちらも、互いの心情を全く理解できなかった。
「私は生あるものを愛したいのだ。闇も死もうんざりだ」
「私は死せるものを愛する。最後にたどり着く死は、生あるものの救いぞ」
須勢理比売が根の堅州国に神逐《かむやら》いされてから、話し相手が欲しいのか、この黄泉神は気紛れに現れる。
だが、自分を女として見ているわけではなく、艶言を語ったりもしない。
ただ純粋に、話をするだけ。
封じられていた息子達が戻るまで、確かにこの黄泉神との語らいは月見とともに慰めであった。
「死してもまた黄泉返るではないか。ならば死は、終わりではない」
「記憶も神威も失い、只人としてな。永劫の輪廻を巡る――それは終わるよりはましなことか?」
黄泉返ったことのない須勢理比売にはわからぬことであった。
「記憶がないなら、只人に成り果てたとて嘆くことも無かろう。忘れ去ることができぬよりはずっとよい」
「それは、そなたと夫のことか」
「――」
神去ることより残されることの方が、ずっと辛く、苦しい。
忘れ去れる身は苦しみなどとは無縁だ。
夫がいい例ではないか。
さんざん苦しめておいて、自分は神去り、全てを忘れ、今頃は只人として生きているのだろう。
「愛する男の行方を、知りたいとは思わぬのか」
「知ってどうなる? 神代を再び繰り返せと? 甘い言葉を囁いておきながら余所の女の所へ往く夫を待つ日々を繰り返したいとはもう思わぬ。私の愛はとうに死んだ。御霊と同じに、黄泉返ることはない」
あの苦しみを。
胸の痛みを。
失った愛を。
今はただ、忘れ去りたいだけ。
「苦しみのみであったか――?」
闇の主の手が、須勢理比売の額に触れる。
「何を――」
「見せてやろう。過ぎ去った記憶を。失われた男を。死せる愛を――」
「そんなもの、見とうない」
払われた手に、闇の主は咲《わら》う。
凍えるような美貌が少し和らぐ。
「素直でないな。まあ、私はそなたのそんなところも気に入っているのだ。だから、よい夢を見せてやろう。これは、私の悪意無き心からの賜《たまもの》だ」
「やめよ、黄泉神――」
ふるりと視界が揺れて、須勢理比売は自分が門前にほど近い庭木の前に立ちつくしていることに気づいた。
何故このようなところに。
考える間もなく、扉を叩く大きな音がする。
誘われるように近づく。
何故、誰もいないのだ?
訝しげに思いながらも閂を開ける。
開いた扉から最初に見えたのは、根の堅州国では着ない豊葦原の中つ国の装束。
首に掛かる曲玉の美しさに目を奪われ、そして、顔を上げた。
そうして、互いの顔を見合わせる。
自分が息を呑んだように、相手もまた息を呑んだ。
初めて目合《まぐわ》ったあの時。
定めだと感じた。
この方が、私をこの根の堅州国から連れ出してくれる方だと――
見目麗しい男神に、須勢理比売は見入った。
父のように猛々しい顔立ちではない。
寧ろ一番上の兄のように優しげな顔立ちだ。
ほっそりとした顎も、薄い唇も、今は食い入るように自分を見つめている大きな目も、争い事など無縁のように穏やかで、険しい所など何一つ無いように見える。
――貴女が、須勢理比売ですね。
――ええ、貴方様はどなた……?
――豊葦原から参った大己貴と申します。父君にお会いしたく――
――父は――生憎留守にしておりますゆえ……
改めて来て欲しいと言うべきだった。
そうして、扉を閉めればよかったのだ。
なのに。
一時も目が離せなかった。
ずっと見ていたい。
この気持ちは何だろう。
高鳴る鼓動を、どのように沈めればよい?
――……戻るまで、こちらでお待ちを。
そっと腕に触れると、指を絡められた。
頬を染め、それでも手を繋いだまま須勢理比売は庭木の間を縫って奥へと向かう。
己貴の指先はその間も須勢理比売の手を優しく蠢く。
手の平を撫でられ、指の間を愛撫するように擦られ、親指が手首を這う。
須勢理比売の内が甘く痺れる。
――……
最後には半ば駆けるように自室へ向かう。
部屋へ入るなり、己貴は須勢理比売を引き寄せた。
乾き飢えた者が水を求めるようにくちづけられた。
あっという間に床に倒れ込んだ。
衣服を剥ぎ取られ、余すことなく晒される。
喉を鳴らす音がして、それから、己貴が柔らかな胸元に顔を埋めた。
両手が、豊かな胸を揉みしだき、指と舌が一番敏感な先端を淫らに嬲った。
触れられるままにあえかな喘ぎと熱く乱れた息づかいが部屋に満ちていった。
――須勢理比売、私の妻になってください。
何度も何度も交合《まぐわ》ってから、己貴が告げた。
もうとっくに、妻となっているのに。
けれど、須勢理比売は構わなかった。
――はい、己貴様。
その答えに、己貴は、ああ、と身を震わせて須勢理比売を抱きしめた。
そして何度目かももうわからぬ交合いで、その喜びを伝えた。
須勢理比売も求められるだけ応え、二柱の神は離れることを惜しんで交合った。
幸せだった。
互いの他には何もいらなかった。
ずっとそうであれればよかったのに。