高天原異聞 ~女神の言伝~
いつも、遠くから見ていた。
隠れるように。
父神は、自分以外の男が嫡妻である須勢理比売と会うことをよく思わなかった。
例えそれが、幼子であろうとも。
だから、須勢理比売の息子である建御名方《たけみなかた》を慕い、弟と認められるまで、事代主は須勢理比売に目通りすることが叶わなかった。
母神は何故気づかぬのだろう。
あんなにも、狂おしいほどの眼差しで、父神が見つめていることを。
たくさんの妻がいても、他の誰にもあのような眼差しを向けることはない。
自分を産んだ母――神屋楯比売命《かむやたてひめのみこと》も一夜の契りでその後の訪れもない。
他の妻も似たり寄ったりの扱いだ。
二度、三度の訪れはよほど力のある後ろ盾がない限り皆無だった。
そのように争いなく豊葦原を治め、たくさんの妻を娶ったのは、全て母神のためなのに。
初めて目通りを許されたあの時、事代主は自分の運命を悟った。
この女神と、腹違いの兄のために生きて、死ぬのだと。
とても美しいのに、氷のように冷ややかな美貌であった。
切れ長の、けれど意志の強そうな冷たい眼差し。
咲《わら》うと艶めかしいだろう唇は引き結ばれている。
そうだ。
自分は愛する男が別の女に産ませた子。
憎まれても仕方がない。
だが。
――次代の統治者で在らせられる兄上に、何処までも従う所存にございます。母神と兄上にこの命を捧げます。如何様にもお使いください。
驚いたような母神の顔。
それさえも美しい。
自分も、この方を母に産まれたかった。
兄を見るような優しい眼差しで、自分も見て欲しい。
兄がいつも羨ましかった。
母神が独占し、なおかつ唯一の息子として母神を独占できる兄が。
――そなた、名は?
――八重事代主命《やえことしろぬしのみこと》と申します。
――事代主――言霊を操る者だな。神言《かみこと》を告げるそなたなら偽りは語れぬ。我と我が子に仕えることを許そう。
僅かに微笑む母神。
その笑みは確かに自分に向けられている――何という喜び。
胸が高鳴る。
ああ。
きっと。
自分は父の想いから産まれたのだ。
だからこんなにも、この母神に心惹かれるのだ。
愛しくて愛しくてならぬ方。
この命に代えても、お護りする。
それが、自分に立てた誓約《うけい》だった。
「――さて、本当に護れるのか?」
「!?」
己の夢に滑り込んできた他者の気配に、事代主は褥から飛び起きた。
暗闇の中、己の息づかいだけが響く。
静寂の中に幽かだが黄泉神の――闇の主の気配がする。
根の堅州国と黄泉国の闇は同質のものだ。
そして、闇の主の領域でもある。
今、事代主は憑坐《よりまし》の中にいる。
封じられていた御霊《みたま》のみの自分が豊葦原に降臨し、神威を使うためだ。
荒ぶる神に傷つけられた憑坐の命を繋ぎ止めるためにも人間の内に留まらねばならぬ。
その分、闇の主が死に近い眠りの中の夢に紛れ込んでくるのも容易い。
嫌な予感がする。
「須勢理様――」
事代主は部屋を飛び出し、母神の部屋へと向かった。
静まりかえった屋敷の廊下を月明かりだけが照らす。
母神の部屋は、屋敷の一番奥にあった。
両開きの扉の片側だけを開け、静かに滑り込む。
部屋に入るなり、闇の主の気配がする。
しかも、濃密に。
母神の夢の中にも入り込んだのだ。
事代主は怒りで震えた。
穢らわしい黄泉神が、夢であれ母神に触れるとは。
褥には誰もいない。
いつも母神が月見のために開いている外開きの小さな木窓が開いていた。
そこに、身を預けるように眠っている母神の姿がある。
「母上様――」
小さく声をかけ、事代主は近づいた。
起きる気配はない。
肩に腕を回し、抱き起こすと、力無く倒れ込んでくる。
事代主は開いている方の手で木窓を閉め、悪しき者を阻む結界を敷いた。
これで誰も近づけない。
母神を害する者は、決して許さない。
頬にかかる乱れた髪を静かに払うと、そこには無防備な美しい寝顔がある。
いつもの冷たい印象は消え、あどけなくも見える。
閉じられた目蓋からそっと涙が伝う。
こんなにも美しく、哀しい女神を自分は知らない。
父神が愛したただ独りの女神。
愛おしさが込み上げる。
「――」
その頬を零れる涙を、そっと指で拭う。
それに気づいたのか。
事代主の首筋に母神の腕がまわり、引き寄せられる。
「!?」
そのまま、抱きしめられる。
夜着越しの柔らかな感触に、事代主の身体を甘い痺れが駆けめぐる。
神代とは違う、溢れる愛しさを抑えきれなくなる。
「己貴様……往かないで……」
項にかかる熱い吐息。
押しつけられた胸の柔らかさ。
すり寄せられた細腰には己の淫らな欲が当たる。
欲しい。
この女神と、交合いたい。
強烈な欲望に、抗えない。
事代主は縋り付く須勢理比売を抱き上げて褥へと横たえる。
首筋に回された腕を外し、褥へ優しく押しつける。
神威が発現する。
封じられているはずの言霊の力が満ちる。
何故かと考える暇もなかった。
操られるように言霊で絡め取る。
『これは夢なのです。今貴女を抱いているのは夫である己貴です。貴女だけを愛する己貴が、貴女を抱くのです』
耳元で囁かれた力強い言霊に、母神は容易く絡め取られた。
「ああ……己貴様……」
「須勢理……」
閉じられた目蓋から、涙が溢れる。
だが、その表情は艶めいた喜びにほころんでいた。
事代主は母神の夜着の帯をほどき、輝くばかりの裸身を露わにする。
初めて見るのに、懐かしいような気がした。
この肌に、ずっと触れたかった。
事代主はその柔らかな胸元に顔を埋めた。
拒まずに受け入れる従順な身体に、飲み込まれるように我を忘れて貪った。