高天原異聞 ~女神の言伝~
「着いたぞ」
建速の短い声にはっとする。
車を降りると、そこは図書館の前だった。
慎也が消えた芝生の辺りには何もない。
道路に沿って置かれた水銀灯の明かりに仄かに浮かび上がる手入れされた芝生。
まるで、あの時見た光景が嘘のようだ。
あれはまだ、昨日の事なのに。
胸が痛む。
大声で泣いてしまいたい。
「美咲――泣くな、大丈夫だ」
優しい声がして、頭を撫でられる。
泣かないようにぎゅっと目を閉じて、それから開いた。
「往けるか?」
「ええ」
建速の伸ばした手をとる寸前。
「お待ちください!!」
木々の間から凛とした声音が響く。
建速の手が伸び、美咲の手を掴み、残りの距離を縮める。
庇うように建速の腕の中へ美咲は入った。
木々の間から現れた人物が二人、暗がりからゆっくりとこちらに近づいてくる。
「え?」
水銀灯の明かりに照らし出された二人を見て、美咲は驚いた。
「美里さん、莉子さん……?」
図書館の常連、美里と莉子は、美咲と建速の前に来るとすっと膝をついた。
その所作は、優雅で美しかった。
そして、制服を着ていようとも、いつものかしましい女子高生には見えない気配をまとわりつかせていた。
「我らは国津神。豊葦原の中つ国の忘れられた守り神です。久久能智《くくのち》でございます」
「女神をお護りするために参りました。我は鳥之石楠船《とりのいわくすぶね》」
凛と響く声音も、いつもの美里と莉子の声とは違って聞こえた。
「貴方様は、我らが女神のお味方ですか……」
莉子の中にいる神が、縋るように建速を見た。
「敵ではない。女神を黄泉神には渡さん。言霊に誓う」
最後の言葉に、ようやくほっとしたように緊張が解ける。
「すでに憑坐を見つけたか」
「はい。目覚めてすぐに。女神のお傍にいるには、女神の身近にいる者を選ぶがよいかと」
「そうだろうな。神霊しか持たぬ神々であれば、それは当然だ」
建速は驚くことなく答える。
美咲はただ呆然と建速と美里達の会話を聞いているしかない。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
そんな美咲の内心の動揺を余所に、神々は全く動じていない。
「俺と葺根、宇受売の他に、久久能智、石楠か――美咲」
呼ばれて、美咲ははっとする。
建速はコートのポケットから美しい曲玉と管玉の連なった首飾りを取り出し、美咲にかけた。
「これは……?」
「その曲玉に、風と水の神威が込めてある。その名を呼べば、神威が解き放たれる」
「名前なんて、知らないわ」
「その時が来たら、わかる。神威が、伝えるだろう」
「――」
納得できない美咲を見て、建速が咲う。
「後で説明してやる。今は大人しく従ってくれ。そろそろ往くぞ」
「恐れながら、根の堅州国への案内はこの私に」
鳥之石楠船が名乗り出る。
「そうだな、そなたの神威が一番相応しい。禍つ霊の紋様の名残を追え」
「御意に」
にこりと咲って、莉子が美咲を見る。
よく知っているはずなのに別人のような莉子に、美咲は戸惑う。
「母上様、僭越ながら、この石楠が先導をつかまつります」
「は、はい。よろしくお願いします。ごめんなさい。記憶がなくて」
慌ててお辞儀をする美咲に、莉子と美里が目を細めて咲う。
「神代の記憶がなくても、貴女様が私達にとって大事な方であることに代わりはありません」
温かな神気が、自分を包み込む。
懐かしさに、胸がつまる。
知っている。
この感覚だ。
自分を助けてくれた神気だ。
「……ずっと、助けてくれた?」
「――はい」
「傍に、いてくれた」
嬉しそうに莉子の中にいる神が咲う。
「はい。いつも、お傍に」
その美しい笑みに、美咲は泣きたくなった。
「では、参ります。建速様、母上様をお願いします」
その声とともに、莉子の身体から不可思議な揺らぎ――神気が立ち上る。
建速が背後から美咲を抱きしめる。
美咲は、思わずその腕に掴まる。
莉子の伸ばした両手から解き放たれた神威が、芝生に薄墨のように残る紋様を浮かび上がらせた。
同時に、紋様が芝生の中へと沈み込んでいく。
美咲達の足下の地面の感覚がなくなった。
ゆっくりと紋様のように沈み込んでいく。
「建速……」
「大丈夫だ。怖かったら目を閉じていろ」
身体に回った腕が、しっかりと美咲を抱きしめる。
「……約束よ。何があっても、護って」
「言霊に誓う」
揺らがない建速の声音に、美咲は目を閉じた。
神威が満ちる――
空間が揺らぎ。
そして、戻ってきた静寂とともに、六人の人影は綺麗にその場から消えてしまった。