高天原異聞 ~女神の言伝~
「まあ、御子様。何やら楽しげでいらせられる。どなたを思い返していらしたのですか」
長く美しい髪を後ろで高く結い上げ、垂らしている天津神の巫女神が声をかける。
美しい豊葦原を見下ろす、美しき天津神――天孫の日嗣の御子と、傍らには美しき巫女神――天之宇受売命《あめのうずめのみこと》がいる。
不意の物思いを破られ、日嗣の御子は慌てたように視線を向けた。
「いや、早く全てが恙なく終わらぬものかと考えていたのだ」
「そうでしょうね。でなければ、愛しい嫡妻《むかひめ》様のもとへは帰られませぬ故」
「宇受売――」
苦虫を噛みつぶしたような容に、巫女神は微笑む。
「知らせが届きました。嫡妻様はこちらに向かっておられるとのこと。昼過ぎには着くと。何やらお話があるそうですよ」
「本当か!?」
驚きと喜びを隠さぬ日嗣の御子に、姉のように見護ってきた巫女神は優しく応える。
「嫡妻様の部屋は用意させましたが、一番先に御子様のお部屋へお通しします。今日は、目通りを願っている国津神がおります故、そちらにお会いになって、あとは嫡妻様とごゆるりとお過ごしなさいませ。邪魔はせぬよう申しつけておきます故」
「わかった。連れてくるがいい」
巫女神は一礼して、国津神を呼びに戻った。
思いがけぬ知らせに、心が躍る。
愛しい妻に早く逢いたい。
早く國譲りを終えて豊葦原を平定させれば、もう決して傍から離す事はするまい。
一目で惹かれた美しい国津神の比売神。
誰にも奪われたくなくて、強引に父である大山津見に願い出て妻とした。
双子の姉比売が自分も従うと言い募ってきたが、欲しいのは妹比売唯独りだ。
同じ顔をしていても御霊が違えば意味がない。
愛しく思うものはいつも一つだ。
木之花咲耶比売だけを娶り、交合った一夜は素晴らしかった。
恥じらいながらも触れられる喜びに震えていた美しい裸身。
喘ぐ甘い声とともに切れ切れに名前を呼ばれると、愛しさはいっそう募った。
もうすぐできる館に比売を迎えて、昼も夜もともに過ごす。
この美しい豊葦原で、美しい比売と、民草を護って生きてゆくのだ。
胸を満たす幸福感に、日嗣の御子は酔った。
「天孫の日嗣の御子様でいらせられますか?」
かけられる声に、日嗣の御子は振り返った。
そこには、背の高い、優しげな顔立ちの国津神が立っていた。
「そなたが、目通りを願っているという国津神か」
「は、お初にお目にかかります。八島士奴美《やしまじぬみ》と申します。父は建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》、母は櫛名田比売命《くしなだひめのみこと》です」
すっと跪き、八島士奴美は頭を垂れた。
「おお、荒ぶる神は我が祖父でもある故、そなたは我が叔父でもあるのだな。立ってくれ、豊葦原の話を聞かせてくれ」
「畏れ多いことにございます」
日嗣の御子と八島士奴美は驚くほど意気投合した。
優しく語る八島士奴美は日嗣の御子に安心感を抱かせるに十分だった。
血の繋がりがあることも警戒心を解く一助ともなった。
だから、いつもなら短い時間で終わる目通りも、尽きぬ会話で長く楽しいものとなった。
そろそろ暇乞いをするという八島士奴美に、日嗣の御子は聞いた。
妻はいるのかと。
もしいないのなら、自分の妻の双子の姉比売と引き合わせるつもりだった。
血縁がさらに縁続きになるなら、こんなに喜ばしいことはない。
日嗣の御子は、八島士奴美を気に入っていた。
「まだおりませぬが、近々娶る予定です」
照れたように言う八島士奴美に、内心がっかりしたものの日嗣の御子は微笑んだ。
「そうか、それはめでたい」
「諦めかけていたのですが、ようやく色よい返事をもらうことができました。長く待っていたかいがありました。すでに子もおります」
「おやおや。子もおるのに長く待たせるとは、つれない女神であるのか?」
「根の堅州国には往きたくないと言われて。ですが、ようやく心を決めてくれたようでとても嬉しく思っております」
誓いの印にと文とともに送られてきたものだと、八島士奴美は懐から大切に包んだものを取り出した。
それは、花を象った髪挿しの飾り房だった。
その飾りを、どこかで見たと、日嗣の御子は思った。
「して、その比売の名は?」
うかつにも、日嗣の御子は聞いた。
八島士奴美は嬉しそうに答えた。
「国津神の幸わい――神阿多都《かむあたつ》比売にございます」
「なに……?」
どくんと、胸がざわめいた。
その名の比売を、日嗣の御子は知っていた。
「――もう一度、その、比売の名を教えて頂けぬか」
「大山津見命《おおやまつみのみこと》の娘、神阿多都比売でございます。咲く花のごとき美しさ故に、木之花咲耶比売《このはなさくやひめ》とも呼ばれております」
風が木々の間を抜けていった。
「御子様、嫡妻様がお着きになりました」
背後から、宇受売の声がした。
振り返らずに、日嗣の御子は応えた。
「今往く。誰も近づけるな」
「御意に」
「それでは、私もこれにてお暇致します」
八島士奴美が一礼して宇受売とともに去っていく。
日嗣の御子は、ゆらりと身体が傾ぐのを感じて、咄嗟に近くにあった木に身を寄せた。
心が冷えていくのを感じた。
裏切ったのか。
自分の居ぬ間に、他の男の妻問いを受けたのか。
確かに、正式な婚儀を上げたわけではない。
唯一度の交合い。
それでも、自分には正式な妻問いだった。
受けてくれたからこそ、身を任せてくれたのではなかったのか。
あの夜は偽りだったのか。
裏切っておいてここに来るとは、どういうつもりだ。
ふらりと、日嗣の御子は歩き出した。
自分を裏切った女の言霊を聞くために。