高天原異聞 ~女神の言伝~
第五章 微睡む神々
1 日月の神霊
天の浮橋を通って、高天原に戻った時、天照大御神の前には八百万の神々が控えていた。
皆跪き、高天原の主である天照の言霊を待っている。
「皆目覚めたか」
「美しい神鳴りとともに。封じられていた天津神は一番最後となりましたが」
言霊を返したのは、思兼命《おもいかねのみこと》である。
「うむ。すでに国津神は民草に憑坐を得て、豊葦原に現象した」
「豊葦原に留まった天之宇受売《あめのうずめ》は、今生でもついに戻りませぬ。神去ったのでしょう」
「宇受売は建速についた」
「天之宇受売が!? 真に御座りますか?」
「まだ、成すべきことがあると」
美しき巫女神。
誰よりも艶やかで勇敢な天之宇受売命は天照の一番の気に入りであった。
だからこそ、瓊瓊杵を天降らせる時、共に往かせた。
絶対に自分を裏切るはずのない宇受売が、何を思って豊葦原に留まるのか。
「思兼、憑坐なしでも、豊葦原に降れるか」
「無理でございましょう。領界が隔てられ、豊葦原の中つ国も変遷しております。すでに下界は人間の領界。我々の領界ではございませぬ。天降るには憑坐がなくては」
天照の美しい柳眉が寄せられる。
「憑坐となれる人間はあらかた国津神が得た。このまま黄泉神と国津神に豊葦原を奪われることだけは避けねばならぬ」
「ご安心ください。憑坐を得るための策はございます」
「真か」
「ですが、それには夜の食国《おすくに》の御方にご協力いただかねばなりませぬ」
「――」
暫し、天照は物思いに囚われたが、それを振り払うかのように頭を振った。
「――よかろう。斑駒《ふちこま》を呼べ」
「御前に」
控えている神々の間から、立ち上がった若き天津神。
その姿は青年のまま、長い髪を後ろに高く結い上げ垂らしている。
その瞳は金と赤の斑《まだら》であった。
天照の前に進み出て、跪く。
「天之斑駒。そなたの神威が要る。宵闇を連れて参れ」
「御意に」
天之斑駒の神気が揺らめく。
跪くその体躯に神威が満ちる。
澄んだ美しい震えが高天原の大気に鳴り響く。
そして、その神鳴りにも似た美しい響きと共に、下界と同じく高天原を照らす太陽が傾きを弓なりに早めていく。
神々は天空を見上げ待った。
傾きと共に、青空は茜色へと姿を変え、見る間に宵闇が訪れた。
時の流れを司どる神である天之斑駒は、瞬く間に時を操り夜とした。
頭上に浮かぶは夜の月。
冴え渡る美しい満月の現れであった。
「夜の食国の主、月読命《つくよみのみこと》降りしませ」
思兼の言霊に、八百万の神々が唱和する。
神々の言霊が新たな神を召還する。
月影が階《きざはし》を創る。
一筋のそれは、唱和と共に影を色濃くし、皓々《こうこう》と冴え、俄に美しき神が降り立つ。
裾丈のやや短い衣に帯を締め、褌《はかま》に足結《あゆい》。
天照大御神の装束のように、月光の煌めきによく似た不可思議な光沢を放つそれは白。
三貴神の中つ貴神《うずみこ》――月読命である。
「――」
ほう、と神々から嘆息の声が漏れた。
その容は、麗しき太陽の女神とよく似ていた。
艶のある豊かな髪は耳前の横髪を髻《みづら》にし、胸元へと垂らしている。後ろ髪は項で軽く結ったまま背へと流れ、額には月を象った美しい縵《かづら》。
形の良い耳朶を飾る耳輪。
切れ長の美しい目に通った鼻梁、唇は紅を差さずとも魅惑的であった。
容だけをみるなら、男神のように凛々しく、女神のように楚々とし、中性的でもある。
太陽神が見る者を慄かせるほどの美貌なら、月神は見る者を惑わせる美貌ゆえに、相対した日月《ひげつ》の神霊に、神々は平伏した。
「姉上。私を喚んだのは、何故ですか」
月神の高すぎず、かといって低すぎぬ澄んだ声音も麗しく響く。
頭を垂れたまま、思兼が言霊を発する。
「麗しき夜の御方に、高天原よりのお願いがございます」
つと、月読の視線が思兼に移る。
「――」
「月読」
何をか告げようとした言霊は、天照に遮られる。
もう一度月読が視線を向けると、そこには麗しい女神――高天原の、天津神々の主たる天照が在る。
「隔てられていた領界が再び重なった」
「ええ。私が喚ばれて高天原に足を踏み入れることが出来たのも、それ故」
「根の堅州国に、建速がいる」
「!?」
「建速は豊葦原から攫われた父上様の黄泉返りを取り戻すべく、同じく黄泉返られた母上様と共に根の堅州国へと往ったのだ。昔も今も変わらず、あやつは理を乱し、高天原に背く。私は許さぬ」
天照の麗しい容が怒りに染まる。
それでも、女神は愛しく、美しい。
その愛しさ、そして美しさ故に、月読は逆らうことが出来なかった。
神代でも、今生でも。
「月読。高天原の使者として、建速のもとへ往け。そなたなら、根の堅州国に憑坐なしでも降臨できる。父上様を高天原へ、母上様は黄泉国へお戻りいただく。私の望みを叶えよ。往ってくれるな、月読」
ほんの一瞬、その美しい容が苦痛を堪えるように歪んだ。
だが、頭を下げたために、その表情は誰にも気づかれることはなかった。
「――御意に」