高天原異聞 ~女神の言伝~
「己貴、大丈夫か」
大己貴命《おおなむちのみこと》が目を向けると、すぐ上の兄の大穴持命《おおなもちのみこと》が心配そうに見ている。
「荷物をこちらへ。半分私が持とう」
「ならぬ、兄上。私が言い出したのです。これくらい、何ともない」
「だが」
「兄上、妻問いに往くのだ。遅れてはならぬ。他の兄上に八上比売をとられてもよいのですか?」
躊躇う穴持を、励ますように押しやる。
「――すまぬ、己貴」
「謝らなくてよいのです。自分から言い出したのですから。さあ、お早く」
何度も振り返りつつ先を急ぐ兄に、己貴は咲って手を振る。
己貴は、自分とよく似たこのすぐ上の兄がとても好きだった。
五つも離れていても、きっと双子に生まれるはずだったのが、何かの間違いで兄が先に生まれてしまったのだと思うくらいに。
だからこそ、八十神達が八上比売に妻問いに往くというのを荷物持ちとしてついてきた。
兄達の中で一番優しく一番見目麗しい穴持を、己貴は心配だったのだ。
自分が往かなければ、荷物持ちを任されるのは穴持であったのだから。
荷物持ちは当然遅れる。
自分がすれば、穴持は先に往ける。
八上比売の目通りにも間に合う。
それでいいのだ。
できることなら、八上比売は穴持と結ばれて欲しいと、切に願っていた。
格段急ぐ理由もない己貴は大荷物を抱え、景色を楽しみながら先を進む。
気多《けた》の岬にはもうすぐそこだった。
海からの心地よい風が吹いている。
左手に海を見ながら歩いていると、波の音に混じって、呻くような泣き声がする。
声の方に向かうと、砂丘から少し離れたところに俯せで倒れている者がいる。
「どうした、大丈夫か」
持っている荷物を置いて駆け寄ると、上半身に薄絹だけ纏った幼い少年神が身を震わせて泣いている。触れようとしたが、その背が薄絹からでも怪我で真っ赤になっているのがわかる。
ゆっくりと顔を上げた少年神は、最初己貴の顔を見て驚いていたが、小さく首を振ると、さらにさめざめと泣き出した。
「私は素菟《しろうさぎ》。怪我をしているところを見目麗しい神々方と出会いました。貴方様とよく似ておいでの麗しき神が、海に身を浸し、そうして風に身を晒すようおっしゃったのです。そうすれば、傷が治ると。ですが、癒えるどころかあまりの痛みに動くことも出来ず、こうして苦しんでおりました」
それはきっと穴持だ。
恵み豊かな塩は、清めの力がある。
傷口を早く癒すには一番だった。
己貴は担いでいた荷物も下ろすと、素菟をそっと抱え上げ、痛みに震える小さな身体を河口まで運んだ。
そうして、河へと入り、素菟の身体を真水に浸した。
背中に張り付いていた薄絹が傷口から優しく剥がれる。
傷口はあらかた塞がっていた。
海水のおかげであろう。
これならば大丈夫と、己貴は河口近くに生えていた蒲の穂の花粉を背につけてやった。
痛みがようやく治まった素菟は、身なりを整えると己貴の名を問うた。
己貴は軽い気持ちで名を告げた。
「兄達は一足先に八上比売のところに参った。私はのんびりと荷物持ちをつとめておるのだ」
「八上比売様の――あのように残忍な方々が、比売様の求婚者なのですか!?」
怒りに震える素菟に、己貴は慌てて言い募る。
「兄上は残忍ではないし、申したことは間違いではない。塩で傷口を清めると怪我の治りが早いのだ。確かに痛みは伴うが、それは致し方のないこと」
「いいえ!! あのような苦しみを味わわせるなど、悪しき神々でございます!!」
素菟はすくっと立ち上がると、優雅に一礼した。
「ご安心召されよ。兄神様達は、決して八上比売を娶ることはできぬでしょう」
そうして、あっという間に駆け去っていってしまった。
「ま、待て!!」
そう叫んでも、もはや素菟は遙か彼方となっていた。
「困ったことにならぬとよいが……」
嫌な感じを覚え、己貴は放って置いた荷を持つと自分も先を急いだ。