高天原異聞 ~女神の言伝~
夜が更けて、八上比売は夜着を身に纏い、窓辺に座り込んでいた。
これから夫となる神を迎えようとしているのに、心は少しも晴れなかった。
たくさんの男神に出逢ったが、一目見て心を奪われたのは大穴持命《おおなもちのみこと》だけだった。
この方が自分の対の命だと思った。
穴持を選ぶことを迷わなかった。
素菟が戻ってきて、八十神の――穴持の行いを告げるまでは。
だから、己貴を選んだ。
でも。
顔立ちは似ていたが、それ以外何もかも違う。
己貴は自分を見ても、穴持のように熱を帯びた眼差しで見つめてはくれなかった。
そして自分も、穴持に感じたような胸のときめきを感じることはなかった。
ぽつんと、堪えきれずに涙が零れる。
「――」
声を殺して、八上比売は泣いた。
やがて部屋へ近づいてくる気配と密やかな足音を感じ、八上比売ははっと顔を上げた。
足音が部屋の前で止まる。
己貴が来たのだ。
泣き顔を見られぬように、八上比売は傍らの明かりを吹き消した。
途端、暗闇が訪れる。
同時に部屋に入ってくる気配がした。
頬に伝う涙を慌てて拭う。
そうして居住まいを正して待った。
だが、褥の前まで来ても、それ以上動く様子がない。
「……己貴様?」
「八上比売……」
呼ぶ声が違う。
八上比売にはすぐわかった。
年若い己貴とは違う、もっと年上の、落ち着いて大人びた声。
ずっと聞いていたいと思った声、だった。
心が震える。
「誰です!? 己貴様ではないのですか?」
咎めるように響く声に、あくまでも優しくかかる声。
「私です、八上比売。穴持です」
「穴持様!! 何故ここに!?」
「弟の己貴が私を慮って、入れ替わってくれました。お話を聴いていただきたくて」
暗闇の中、穴持が近づく。
思わず八上比売は座り込んだまま後退った。
それを感じ取ったのか、穴持の動きがそれ以上止まる。
「言霊に誓います。貴女様に、偽りを申しませぬ」
「何をおっしゃりたいのですか……?」
「その前に、お聞かせください。己貴を選んだのは、素菟の話を聞いたからですか?」
「――そうです」
そうでなければ、穴持を選んでいた。
じわりと、また涙が滲んだ。
「誤解なのです、八上比売。私は素菟を痛めつけるために海水に身を浸せと言ったのではございません」
「え……?」
暗闇の中で必死に経緯を話す穴持の様子は、偽りを述べているようには感じられなかった。
そして、何より、穴持の言霊を八上比売は信じたかった。
「八上比売、改めて妻問い致します。私の妻になっていただきたいのです」
真摯な言霊に、胸が高鳴る。
「貴女を愛しく思います。このような気持ちは初めてなのです。どうか私を受け入れてください。貴女なしでは、生きられませぬ」
「……私とて、想いは同じでございます。素菟に告げられたとき、悔しくてなりませんでした。何故、もっと遅く戻ってこなかったのかと」
穴持が八上比売の白い手をとる。
「ああ――八上比売。私を選んでくださるおつもりだったのですか」
八上比売が穴持の手に、もう片方の手を重ねる。
「お慕いしております。穴持様。貴方様がお出でになり、私に妻問いしてくださって、本当に嬉しかったのです」
手を引かれて、八上比売は穴持の胸の中へ倒れ込むように抱き寄せられる。
八上比売は息が止まるほど強く抱きしめられて喜びにうち震えた。
「穴持様、苦しゅうございます」
八上比売の声に、はっとしたように穴持の力が緩む。
「すみませぬ、比売。つい」
暗闇の中、慌てて八上比売の顔を覗き込み、確かめようとする穴持に、八上比売は思わず咲ってしまう。
「比売――?」
近づいた穴持の頬を両手で引き寄せ、八上比売からくちづける。
驚いて強ばっていた穴持の身体が、優しい触れ合いだけで離れていこうとする唇に気づいて、追いかけるように塞いだ。
そうして、もっと深くくちづけあう。
とろけるように甘いくちづけにのめりこむように酔った。
そのまま、褥に倒れ込む。
帯がほどかれ、白い肌が露わになる。
肌を辿る熱い吐息と唇と舌に、優しく探る指に、八上比売は身を委ねる。
幸せだった。
これ以上はないと言うほど。