高天原異聞 ~女神の言伝~
虚ろだった意識が徐々に戻ってくる。
「――」
暗闇の回廊に佇んでいる自分に気づいた時、己貴は驚いた。
何故このようなところにいるのか。
「己貴!?」
自分を呼ぶ声。
すぐに己貴は振り返る。
「兄上!?」
穴持がそこにいる。
己貴は兄に駆け寄る。
「兄上、ここはどこです? 何故我々はここに?」
「覚えておらぬのか。私達は神去ったのだ。ここは、黄泉国へと通じる道だ」
「私達が死んだと!?」
「その通りだ」
向かう先の更なる向こうから近づく声。
穴持と己貴はゆっくりと進みながら目を凝らす。
暗闇に浮かぶ闇より濃い長い髪。
灯る明かりのような琥珀の瞳。
回廊に佇む、麗しき闇の神。
「何者だ!?」
「我は黄泉国《よもつくに》を統べる闇の主。死を統べる神」
滑るように近づくその姿は闇の神気を身に纏い、どこか冷たい回廊にあって、不思議と包み込むような穏やかさを持ち合わせていた。
形のいい唇が微笑みを象ると、冴えた美貌ですら優しげに見える。
「歓迎する――と、言いたいところだが、造化三神よりの願いだ。黄泉路を降ることは未だ叶わず」
己貴は、俄かに己の身体が暗闇の回廊から引き離されていくような感覚を味わっていた。
「この感覚は――」
隣にいる穴持には、そのような感覚はないらしい。
「母の執念とは凄まじい。死せる神をも引き戻すとは」
闇の主が手を挙げると、暗闇の回廊に地上の様子が水鏡のように浮かび上がる。
「あれは――母上」
穴持と己貴の母、刺国若比売《さしくにわかひめ》が見える。
婚礼の知らせを受けて、急ぎやってきたのだろう。
無惨に焼き尽くされ、散り散りになった息子の身体の欠片を抱きしめ、泣き叫んでいる。
泣きながら、天へと奏上する刺国若比売は憐れだった。
声までは聞こえないが、天は刺国若比売の奏上を聞き届けたらしい。
まばゆい光が差して周囲を照らす。
そうして、雲を抜けて二筋の光が降りてきた。
光は焼焦げた地に着くと、見る間に二柱の巫女比売に変わる。
造化三神の内の一柱、神産巣日神《かみむすひのかみ》の御子、刮貝比売《きさかいひめ》、蛤貝比売《うむかいひめ》が目を閉じ、両手を大気へと伸ばす。
神威を発現させ、焼焦げ、散り散りになった身体を再生させようとしている。
「そうだ、八十神の兄上の神威で、私達は……」
穴持と己貴を目がけて放たれた八十神全ての神威。
怒りと憎しみに満ちた神威は、灼熱の塊となって二柱の神を焼き尽くし、押し潰した。
思いもかけぬ八十神の攻撃に、気づく暇《いとま》も、為す術さえもなかった。
「造化三神の頼みでは断れぬ。黄泉国の手前、暗闇の回廊までなら死者の数には入れぬ。そなたらの母が命を懸けたのでな」
天津神の神威と国津神の神威が交わり、増幅され、散り散りの肉片がゆっくりと肉体を復元されていく。
刺国若比売は命を燃やすかのように神威を発現させる。
理を曲げてまで取り戻したいと願う母の心が伝わる。
「誓約《うけい》は成された。もとより死すべき定めではない故、成すべきことを成す為、未だ黄泉国へ足を踏み入れることは罷りならぬ。疾く去れ」
「戻れる!? 兄上、戻れるのですね」
兄を振り返る己貴。
だが、穴持は、優しく首を横に振る。
「今戻れるのは、独りだけだ。それは私ではない。そなたが戻る」
その言霊に耳を疑う。
「八上比売に、私の想いを伝えてくれ。きっと黄泉返る。そして、再び迎えに往くと」
「兄上、駄目です。一緒に戻るのです」
穴持は己貴に向かって咲って見せた。
抗えぬ力が、己貴を兄から引き離す。
伸ばした手も、届かない。
「己貴、比売を頼む――」
「嫌ですっ!! 兄上、兄上ぇ――――――――――――っ!!」