高天原異聞 ~女神の言伝~
4 死神の残り火
沈黙の中、ふわりと風が揺らぐ。
顔を上げた建速《たけはや》が、天津神の神気を感じ取る。
闇の中にも目映い月影。
意識のない美咲の傍らに座り込んでいる久久能智《くくのち》と石楠《いわくす》も天津神の気配に気づく。
「建速様――」
「久久能智、石楠。美咲から離れるな」
「御意に」
大気が揺らぐ。
冴え渡る月影が階を創り、染み入るように辺りを照らす。
建速は美咲を護る国津神の前に立ち、訪れを待った。
光の中、ふわりと降り立ったのは、三貴神の中つ貴神《うずみこ》――月読命《つくよみのみこと》であった。
「月読。ここはお前の縄張りではない。分を弁え、とっとと己のが領域に戻るがいい」
闇の中で一層際だつ美貌が冷たい笑みを刻む。
「月懸かる、闇の間は、ここは我が領域。弟よ、なぜ姉上の命に従わぬ。そなたは今生にあっても荒ぶる神として高天原に叛《そむ》くか」
「俺は誓約に従って動く。それが我らの天命。故にここに在る」
「天命――」
「そなたの天命もまた、別に在る。天照《あまてらす》に乞われて来たのか? 相変わらず、逆らえぬのだな」
「私の天命を、そなたが知る必要はない」
麗しき容が苛立たしげに歪んだ。
だが、それさえも一層美しい。
「見誤るな、月読。さもなくば、お前も伊邪那岐《いざなぎ》のように全てを失うことになる。対の命《みこと》は、見つけたか?」
「私の対は、姉上だ。それが生まれし時よりの定め。くだらぬ戯言を申すな」
「何度言えばわかる。天照ではない。お前の対は」
「黙れ!! 戯言を聞きに来たのではない!!」
突如、月読の神気が鮮烈な輝きを放つ。
同時に、光の剣が美咲をめがけて放たれる。
「!?」
美咲を護る二柱の国津神の神威と、月神の神威がぶつかり合い、ほんの一瞬、白光に包まれた。
咄嗟に、荒ぶる神が結界を敷き、異変を覆い隠す。
光が消えた時、そこに月神の姿がなかった。
「貴神《うずみこ》は……」
久久能智と石楠が眉を顰める。
「ここだ」
傍らで響く言霊に、国津神が驚き、建速が振り返る。
意識の無かった美咲が目を開ける。
立ち上がるその姿は紛れもなく美咲だけ。
だが、その気配は月神のもの。
月読命の神気が揺らめく。
美咲の口から月読の言霊が漏れる。
「母上様を傷つけられたくなければ下がれ」
美咲の顔で、月読が微笑む。
神気が相まって、神々しい。
国津神が後退る。
「建速様――!!」
「月読、愚かな真似はよせ」
「愚かなのはお前だ、建速!! 高天原に叛くなと言ったであろう!? 高天原が――姉上が、我らの理《ことわり》なのだ。逆らえぬ。そのようなことは、許されぬ!!」
「違う。天照は確かに天津神の主だが、天の意思ではない。それよりももっと抗えぬ天命により、俺は動く。決して、それ以外には従えぬ」
「天命だと!? 太陽神を勝る『大いなる意思』など有り得ぬ!!」
だが、不意に月読の神気が揺らぐ。
月光を覆う、別の神気。
美咲の身体から、月読命が容易く弾き出される。
「莫迦な!? 私の神威を弾くなど!!」
月の貴神《うずみこ》の神威を弾き出すそれは、美しい神気を揺らめかせる。
「夜の御方で在っても、母上様にそのような無体は許されませぬ。お戻りなされませ」
美咲の口から、別の言霊が響いた。
美咲の腕が上がり、その手から神威が放たれる。
「何!?」
包み込むように、神威は月読を取り巻き、優しく縛りつける。
見る間に、月読の容が苦痛に歪む。
「何者だ!? 母上様ではないな!!」
「女神の微睡みを妨げてはなりませぬ。いずれお戻りになります」
強制的に戻される前に、月読は優しい呪縛を断ち切った。
そして、するりと闇の中にその姿を消した。
同時に、美咲の身体を包んでいた神気も消える。
力無く崩れ落ちる美咲を、建速が駆け寄り、受け止める。
「美咲!?」
「母上様!!」
だが、月読が現れる前までのように、美咲は静かに眠り続けている。
「建速様、今の神威は……」
「母上様ではございませぬ。水や風の神威でもありませなんだ。我々国津神の知らぬ加護があるのですか」
不安げな国津神に、荒ぶる神は腕の中の美咲を抱く腕に力を込める。
「わからん。だが、俺達の与り知らぬ何かがあることは間違いない。伊邪那美《いざなみ》独りの神威では、決して黄泉国《よもつくに》から逃れ、今生まで隠れていることは出来なかったはず。伊邪那美が真に目覚めるまで、俺達は護るだけだ」