高天原異聞 ~女神の言伝~
6 小さき神
事代主《ことしろぬし》は、闇の主がいとも容易く木之花知流比売《このはなちるひめ》を捕らえたことに驚いていた。
言霊を操ることには長けていると自負してはいたが、闇の主は遙かにそれを上回る。
額に指先が触れた後、比売神は宙を見据えたまま動かなくなった。
一体どのような言霊を吹き込んだのか。
比売神が力無く座り込んだところに、とどめとばかりに悪しき言霊を囁く。
絶叫と共に、比売神はその場に頽れた。
「――」
闇の主の冷たい美貌が満足げに笑みを刻む。
同時に、事代主は首にかかる呪詛の紋様が軽い衝撃と共に取り払われるのを感じた。
呪詛から解き放たれたのだ。
首元に手を当て、確かめる。
確かに、禍《まが》つ霊《ひ》を感じない。
「どうだ、禍つ御霊《みたま》の呪詛から逃れた気分は」
「一体どうやって――」
「禍つ御霊はもとより死に近き神霊がなるもの。すでに比売は我が支配下にある。比売がそれを望んだのだ」
屈み込み、愛しげに木之花知流比売の頬に触れ、涙の跡を拭う。
闇の主の手が離れると、影が比売神の身体を包み込み、沈むようにその姿を消した。
「比売をどうした!?」
「来るべき時まで、眠っていてもらう。彼女は役に立つ故」
「――そなたの狙いは一体何なのだ。豊葦原か!?」
事代主の言霊に、闇の主は冷笑を返した。
「愚かな――全ての神が豊葦原を恋うると思っているのか? 我は黄泉大神《よもつおおかみ》。黄泉国《よもつくに》を統べる主ぞ。我の願いは一つ――黄泉《よみ》の國産みだ」
「黄泉の、國産み……?」
「我と共に国を統べる黄泉神が必要なのだ。たくさんの死者を統べ、国を統べる神々が。だからこそ、伊邪那美を取り戻さねばならぬ。我の対の命を――」
不意に、闇の主の視線が宙を見据えた。
美しい容が驚いたように幽かに歪んだ。
事代主は訝しんだが、闇の主は何故かそのまま動かない。
闇の主は心ここにあらずといった風に言霊だけを事代主に向ける。
「八重事代主よ――私の邪魔だけはするな。死神《ししん》として黄泉国に来たいのなら止めはせぬ。黄泉神として迎えてやる」
「――」
「嫌ならば、そなたの愛しい者の処へ戻れ。いずれ荒ぶる神が来よう。護りきらねば、また封じられるのみ」
短く言い捨て、闇の主は己の影に溶けるように消えていった。
事代主は結界の中で眠り続ける慎也とともに、置き去りにされたように暫しその場に立ち竦んでいた。