高天原異聞 ~女神の言伝~
須勢理比売《すせりひめ》を背負ったまま、己貴《なむち》は地の門を越え、豊葦原へと戻った。
目覚めた須勢理比売は、不思議なことに理《ことわり》が襲ってきた時の記憶を失っていた。
恐らくは恐怖のあまりに、記憶を封じたのであろうと己貴は思った。
それでいい。
辛い記憶など、須勢理比売には持っていて欲しくない。
夜明けの来る豊葦原を見て、子供のように喜んでいる妻を、己貴は愛しげに抱きしめる。
「己貴様、ここで、私達は生きて往くのですね」
「ああ。そなたは私の妻。豊葦原を治めるこの大国主の嫡妻《むかひめ》――豊葦原の女王だ。そして、そなたと私の末が、この中つ国を永久《とこしえ》に治めて往くのだ――」
美しい夢だった。
だが。
生大刀と生弓矢を使い、八十神達を全て追い払い、この豊葦原の中つ国の継承者として名乗りを上げる頃には、その夢も徐々に色褪せていった。
豊葦原に戻って以来、己貴はまた少しずつ虚しさが自身を蝕んでいくのを感じていた。
堅州国で感じていた、あの満ち足りた感覚。
あれは、根の堅州国にいたからこそのものだったのだ。
それを忘れさせ、癒してくれるのは須勢理比売だけ。
彼女はまさに根の堅州国そのものなのだ。
彼女の傍で、彼女に触れ、交合う時、己貴はその虚無感から逃れられる。
しかし、大国主となった己貴とその妻須勢理比売には、その政務で共に過ごせる時はどんどんと減っていった。
国を治める己貴には、国津神の娘神が新たな妻として差し出されようとする。
断り続けるのにも限度があった。
いっそ、他の誰かに國を譲り、須勢理比売とともに何処か遠くの、誰も知らぬ処で過ごせたら。
御大之岬《みほのみさき》で、独り佇みながら、己貴は物思いに耽っていた。
どうしたらよいのだろう。
己貴は途方に暮れていた。
いくら考えても、何も思い浮かばない。
独りになりたくなかった。
須勢理比売の傍にいたい。
だが、須勢理比売にはこの物思いを知られるわけにはいかない。
さりとて、離れればまたもあの虚無感がひたひたと押し寄せる。
相反する感情に己貴は苦しんだ。
その時。
己貴は海の彼方から何かがやってくるのを捉えた。
それは、天之羅摩船《あめのかがみのふね》だった。
「――」
淡い光に包まれながら、船は陸へと辿り着く。
己貴は小さな船に近づいた。
その船に乗っていたのは、神だった。
海の彼方から来たる神。
小さき神。
己貴は考えるより先に、両手を差し出した。
小さき神は、ふわりとその手の中に飛び乗る。
落とさぬように、そっと己貴は手を上げ、顔の近くへと引き寄せる。
稚《いとけな》い幼子のようにも見え、かと思えば思慮深い青年のようにも見える不可思議な神であった。
「――貴方様は……」
「そなた、この豊葦原の中つ国を治める大国主である大己貴か?」
「はい……私が大己貴です」
名を呼ばれ、驚く己貴に小さき神は咲う。
その小さな手が、己貴の親指に触れた。
「そなたを救けに来た。我と共に、豊葦原を制定せよ」
「私を、救けに……?」
「そうだ」
その小さき神に触れられた時、己貴は、須勢理比売の傍らにいる時のような安らぎと癒しを感じた。
懐かしささえ感じる、美しい神だった。
「私と共に、いてくれるのですか……嬉しゅうございます」
己貴は泣いていた。
ただただ、泣いていた。