高天原異聞 ~女神の言伝~
「ようやく喚んだか」
雲が太陽を遮り、濃い影を造った時、その影から、するりと闇の主は現れた。
「大己貴よ。そなたの願いを聞き届ける。同胞《はらから》の願いは聞き届けねばならぬ」
闇の主の神威が、海の彼方に向けて放たれる。
煌めく軌跡を追って往く闇の神威。
その闇が、消えて逝こうとする須久那毘古那の御霊を捕らえた。
同時に、己貴の神威と呪詛が御霊を追い、絡め取る。
呪詛で絡め取られた神霊を、己貴は再び黄泉から引き戻す。
闇の主は満足げに笑んだ。
「望みを果たすがいい、大己貴。全て成し追えたら、我が許へ。黄泉国にて待つ――」
そのままするりと、闇の主は消えてしまった。
己貴はそれを見なかった。
ただ、自分が引き戻した新たな御霊を見据えていた。
それは、須久那毘古那ではなかった。
己貴とさほど変わらぬ体躯の、見目麗しい神であった。
「我を呼んだのは、そなたか?」
「ええ。私、大国主です」
「思い出せぬ。我はそなたを知っているような気がする。そなたは、我を知っているか?」
「ええ。貴方様は大物主命《おおものぬしのみこと》。我が和魂《にぎみたま》で在らせられる」
「和魂……思い出せぬ」
遠い目をする神に、己貴は微笑む。
微笑みながら、泣いていた。
「思い出せずともよいのです。全て私が憶えております。貴方様はただ、そこにいてくださればよいのです」
「そうか――そなたがそう言うのであれば、それでよいのだろう」
「御諸山《みもろやま》へ。そこが貴方様の坐する処でございます――」
そして、己貴はさらなる呪をかける。
己のが神気と神威だけでなく、引き戻した大物主の神威までも糧とし、この豊葦原に大いなる禁厭を施す。
全ては、彼の唯一の女神のために。
ただ、それだけのために。
この後、己貴は神去り、その子建御名方と事代主は天降りした日嗣の御子の随伴神、思兼命《おもいかねのみこと》と建御雷命《たけみかづちのみこと》の策に嵌り、封じられる。
須勢理比売と、大国主の側の神々はそのほとんどが根の堅州国へ神逐《かむやら》いされた。
しかし、天津神が豊葦原を治めたのは、ほんの一時のことであった。
天津神である日嗣の御子瓊瓊杵命と国津神である木之花咲耶比売命が結ばれ、その恋が悲劇の内に終わり、瓊瓊杵命も儚くこの世を神去る。
そして、禍つ霊の呪詛により、天孫の末は儚く散る定めとなる。
天津神に従わぬ国津神のほとんどは豊葦原に封じられ、残された神々の末は黄泉返りを繰り返し、記憶も神威も神気も失い只人となった。
それこそが神々の黄昏――神代の終わりであったのだ。