高天原異聞 ~女神の言伝~
8 遡る夢
月神が去った後、程なくして葺根《ふきね》と宇受売《うずめ》が帰ってきた。
「どうだった?」
「須勢理《すせり》比売様の結界が在るため、中の様子は探れませぬが、建速《たけはや》様の神威は感じました。間違いなく祖神《おやがみ》伊邪那岐《いざなぎ》様は中に」
「ご苦労だった」
須勢理比売の館に目をやってから、ふと、建速は宇受売に問う。
「宇受売、お前には慎也がどう見える? 伊邪那岐か? それとも日嗣《ひつぎ》の御子か?」
問われて宇受売は戸惑う。
「わかりませぬ」
「わからぬ? お前がか?」
「日嗣の御子様のように感じることもあり、祖神様のように感じることもあるのです。似通った御方なのだろうと思うておりました」
ふむ、と建速は首を傾げた。
「もしや伊邪那岐と伊邪那美《いざなみ》の黄泉返りが瓊瓊杵《ににぎ》と木之花咲耶《このはなさくや》比売だったのか?」
「それはありますまい」
葺根が否定する。
「日嗣の御子様が天降りし時は伊邪那岐様もご存命でございました」
「そうか――」
建速には、最初から慎也と美咲が伊邪那岐と伊邪那美にしか感じられぬ故に、須勢理比売や建御名方《たけみなかた》、事代主《ことしろぬし》がああも頑なに慎也を日嗣の御子と見誤るのかが不思議でならない。
女神の末である自分と違うものを、あの神々は視ている。
どんな手妻がそうさせるのか。
「――」
考え込む建速だったが、不意に須勢理比売の結界が揺らいだのに気づいた。
「皆、気を引き締めろ。須勢理が来る」
その言霊に、久久能智《くくのち》と石楠《いわくす》は美咲を護る結界を強化した。
先ほどのように、誰も女神に触れられぬように。
葺根と宇受売は建速の両脇に下がり、いつでも動けるように控える。
ふわりと、枯れた大地に降り立つのは、須勢理比売――かつての豊葦原の女王、そして、根の堅州国の女王であった。
建速のように両脇に建御名方と事代主を従えて、父と娘が対峙する。
「お久しゅう、父上様。日嗣の御子を取り戻しに来られたか」
「あれは日嗣の御子ではない。祖神《おやがみ》伊邪那岐だ。何故見誤った」
「父上様こそ、耄碌なさったか。敵を見誤るはずもない。あれは天孫の日嗣の御子。私から豊葦原を奪った憎き天津神。私はもう一度、豊葦原に還ってみせる。邪魔をするなら父上様でも許さぬ」
「だから、黄泉神や禍つ御霊と手を組んだと?」
須勢理比売の美しい唇が、笑みの形を刻む。
「そうです。豊葦原を取り戻すためなら、何とでも、誰とでも手を組みましょうぞ。建御名方と事代主が戻った以上、豊葦原の支配権は我らにある。天孫の末はすでに神ではなく、豊葦原は再び国津神の領界となった。豊葦原は我ら国津神の――大国主の末のものです」
須勢理比売の手に、天之詔琴《あめののりごと》が顕れる。
白く細い指が、弦を爪弾く。
その響きが、鋭い棘のように宇受売と葺根、久久能智と石楠に苦痛を与える。
「よせ、須勢理」
荒ぶる神の短い言霊と共に、荒ぶる神威が天之詔琴の響きを追い払う。
「つまらぬ」
須勢理比売の手から天之詔琴が消える。
「いくら父上様とて、この国を出られてからは幾久しい。すでに根の堅州国は私を主とした。父上様ではなく。この国で私に叛いて勝てるわけがない」
「確かに、お前が根の堅州国の主。そう在るべく生まれた娘だ。なのに何故、そこまで根の堅州国を厭うのだ」
「私にもわからぬ。そう生まれついたのです。私こそが問いたい。何故、こうもこの国を厭わしく思うのか。何故、こうも豊葦原を恋うるのか――」
須勢理比売は、遠い目で暗闇を見据えていた。
「だが、何故にと問うことも諦めた。抗えぬこの想いに、流されるまま進んでみせる。私の望みは、今生では、私自身が叶えてみせる。もう、待たぬ」
「――須勢理、何故、堅州国から死の気配がするのだ。ここは地の門を護りし国。未だ生者の国。それなのに何故、神々の神気を感じないのだ。お前と共に堅州国に神逐《かむやら》いされた国津神はどうした」
荒ぶる神の問いかけに、須勢理比売は冷たく嗤った。
「堅州国が生者の国? 初めから、ここは生者の国などではなかった。ここは、死者の国。黄泉国と変わらぬ死せる神の国――」