高天原異聞 ~女神の言伝~
美咲が再び目を開けると、その手の平の上には、小さき神はいなかった。
「須久那毘古那《すくなびこな》様……?」
囁きかける声に、応《いら》えはない。
顔を上げると、目の前には見目麗しく優しげな男神の神霊が佇んでいた。
「あなたは……」
「女神よ、このような不浄の身を曝すことをお許しください」
その神は、神霊を目に見えぬ呪詛で縛られていた。
男神が手を虚空へ翳す。
すると暗闇の中に浮かび上がる紋様で、世界は覆われていた。
呪詛の紋様は、神霊を絡み取っただけでなく、この根の堅州国全体を包み込んでいるのだ。
蜘蛛の糸のように絡み合った呪詛の紋様。
渦巻く情念。
「この紋様が、呪詛の紋様……」
「さようにございます。私が施した呪詛が、全てを変えてしまったのです」
根の堅州国に戻った須勢理比売は、己貴が施した呪詛に気づかぬまま、女神の命を奪い続けた。
だが、すでに死を逃れた須勢理比売に、吸い上げた命は無用のものだった。
呪詛によって、次々と死の微睡みにつく女神達。
吸い上げた命によって、ますます力を得る呪詛。
それによって、根の堅州国自体も大きく変質する。
とうとう呪詛は絡め取られた女神達だけではなく、この根の堅州国にいる全ての神々達の生命を奪いだした。
最後に残ったのは、八上比売と須勢理比売のみ。
そして、今生ではすでに、根の堅州国に生ける神は須勢理比売以外にはおらず、死せる神が、死の微睡みの中で囚われたまま夢を見続ける。
「妻を救いたかった。ただ、それだけだったのです」
「そのための、呪詛だった――」
「ええ。そのためだけに、たくさんの神々を欺き、傷つけ、利用しました。いつもすまない気持ちでいっぱいでした。愛おしく想うのはただ独りのみ。そのために、愛してもおらぬ女を娶り、抱いたことを」
「愛する人は、いつでも一人なの?」
美咲の問いに、己貴は寂しげに微笑む。
「そうです。ただ独りだけ。彼女のために、この世界の理《ことわり》さえも滅ぼしてしまいたかった」
己貴がそっと跪く。
「太古の女神よ。死を司る女神よ。かつて國を産んだように、今度は滅ぼしてください。貴女様にしかできませぬ。私の女神に、どうか御慈悲を」
その言霊に、美咲は戸惑う。
「伊邪那美が産んだのは豊葦原でしょう? 根の堅州国は、産んでない」
「いいえ。貴女様がお創りになられたのです。だからこそ、貴女様にしか壊せない。私の妻を、この国に縛られ続ける憐れな妻を解き放てるのは、貴女様だけなのです」
己貴の言霊と共に、美咲の中に、たくさんの想いが、強い想いが、入り込んでくる。
抗えないこの想いが、神々の夢なのだ。
美咲は受け入れた。
それは、自分の想いでもあったのだ。