高天原異聞 ~女神の言伝~
夢が押し寄せる――これは、須勢理比売の夢。
「須勢理比売様。何故かような処へ」
「月見じゃ。このような辛気くさい国、月見の他は何の楽しみもないであろう」
「確かに、美しい月ですが、淡く滲んで、何やら悲しげに見えます」
「月も暗闇に独りで、寂しいのであろう。取り残された私達のようでもあるな」
「須勢理比売様……」
「先に戻るがいい。私はもう少し月を見ている。この国で私に仇為せるものなどおらぬ」
八上《やがみ》比売は、躊躇うも、須勢理比売の言霊に従い、頭を垂れた。
「お身体に障らぬよう、早めにお戻りくださいませ」
八上比売が静かに去っていく。
須勢理比売は不思議だった。
神逐《かむやら》いされてから、初めて知った、八上比売の事情。
本当は己貴の妻ではなく、その兄、大穴持命《おおなもちのみこと》の妻だとか。
正式な婚儀を上げぬまま妻となったため、穴持が神去りし後、己貴が名ばかりの妻としたと。
兄も弟も、妻を幸せにできずに独り残して神去った。
兄弟そろって、不実な男神達だと、須勢理比売は溜息をついた。
「さようなら。己貴様。もう二度と、誰も愛しませぬ。このように裏切られ、何もかも失うのなら、初めから愛さぬ方がよい」
立ちつくす須勢理比売。
淡く滲む月明かりだけが、女神を照らし、慰める。
須勢理比売はただ黙って、立ちつくしていた。
それは、ようやく訪れた諦めの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、多紀理《たぎり》比売の夢。
「大国主様、何故逢いに来てはくだされぬのですか? 私は貴方様の妻なのです!!」
走り寄り、縋る女神を夫である大国主は振り払う。
その眼差しは、冷たく、ただ冷ややかに女神を見下ろす。
いつもそうだ。
決して自分を見つめてはくだされない。
あの嫡妻《むかひめ》のようには。
「そなたのもとへは何度も通い、子も為した。これ以上何を望む」
「子を為すためだけに、私を妻としたのですか!?」
「――ああ、そうだ。豊葦原を治めるために、そなたを妻とする必要があっただけだ。それ以上を望むな。すぐに帰れ。須勢理にも余計なことを吹き込むな」
「――」
屈辱に身を震わせる女神をもう一度振り払い、夫が背を向ける。
「大国主様!!」
それ以上、何度多紀理比売が呼んでも、大国主は振り返らなかった。
それは、紛う事なき怒りの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、神屋楯《かむやたて》比売の夢。
「お待ちしておりました、大国主様」
巫女装束の女神が、伏して大国主を迎える。
「神託を告げる巫女比売か。すまぬな、政《まつりごと》故に、私に差し出されるとは」
大国主が小さく嗤う。
すっと、神屋楯比売が顔を上げる。
美しく澄んだ瞳が神託を告げる巫女比売を見つめた。
澄んでいるのに、その瞳は昏く、絶望も湛えていた。
苦しんでいるのだと、神屋楯比売にはわかった。
国津神の頂点に立ち、国を治める大神で在らせられるのに、何故この方は、このように寄る辺ない幼子のように憐れに見えるのだろう。
お救いしなければ。
この方を。
「いいえ。貴方様をお救けするべく遣わされたのです。全て承知の上でございます。どうか、お望みを果たされませ」
それは、永きにわたる憐れみの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、沼河《ぬなかわ》比売の夢。
「大国主様を迎える準備は整ったの?」
「はい、比売様」
「ならば、よいわ。下がっていなさい」
側仕えの者が部屋から下がる。
ほうっと、沼河比売が息をつく。
昨夜は突然の求婚に驚いてしまってお帰ししてしまったけれど、今宵迎える手はずは整った。
歌を受け取った侍女は、とても見目麗しい、優しげな男神だと興奮していた。
しかも、この豊葦原を統べる大国主。
もちろん、この妻問いは政略であるのはわかっている。
大国主はこの高志《こし》の国を手に入れるために、自分を娶るのだ。
それでも、優しげな神と聞いて、胸が高鳴る。
たくさんいる中の妻の独りでも、大切にして頂けるのだろうか。
ならば、自分も精一杯お仕えしよう。
大国主様を対《つい》の命《みこと》として、慈しみ、慈しまれ、寄り添い合っていこう。
それは、ほんの束の間の美しい夢だった。
夢が押し寄せる――これは八上比売の夢。
「己貴様、お帰りなされませ」
「八上比売――母上が世話をかけた」
「いいえ。お身体も癒えたのでお連れ致しました。では、これにて私は」
「稲羽へ戻るか」
「はい。己貴様は嫡妻様をお迎えになりました。私は己のが領地へ戻ります」
「すまぬ、八上比売」
「いいえ。謝らないでくださいませ。名ばかりではあっても、己貴様の妻と言うことで、私は煩わされることなく今まで通り稲羽で暮らすことができます」
「兄上を、待つのか」
「……はい。私の対の命は、あの方だけです。いつまでもお待ち致します」
それは、ただ待つだけの静かな夢だった。
夢が押し寄せる――これは、櫛名田《くしなだ》比売の夢。
初めて足を踏み入れた根の堅州国。
暗闇の国。
月明かりだけを頼りに、これから暮らすのだ。
「櫛名田。本当に俺と共に此処で過ごすつもりか?」
もう何度も繰り返された問いに、もう一度答える。
「はい。建速様のおられるところに、私もいたいのです。豊葦原であろうとも、根の堅州国であろうと、何もかわりはありませぬ」
愛しい夫が優しく咲う。
「愚かだな。だが、有難く思う。お前の産む最後の子が、この根の堅州国の主となる」
この寂しいだけの国に、救いを与えるのだと、建速様は仰った。
この方の夢は私の夢。
その望みを、叶えてみせる。
櫛名田比売は愛しい背の君にそっと寄り添う。
それは、何処までも深い愛の夢だった。
夢が押し寄せる――これは建速須佐之男の夢。
「建速よ。そなたには大海原の支配権を与えた。何故我が命に従わぬ」
「祖神伊邪那岐よ。それは真の願いではないからだ」
「そなたの願いは何だ。何を願う」
「俺は根の堅州国へ往く。伊邪那美の想いの残る新たな国へ。伊邪那美に会わねばならん」
「そなたが何故伊邪那美を恋う」
「それは、俺が最後の貴神《うずみこ》であるからだ。祖神伊邪那岐の最後の嘆きから成りませる凄《すさ》ぶる神だからだ」
それは、揺るぎない理《ことわり》を知らしめる夢だった。
夢が押し寄せる――これは、伊邪那岐の夢。
「愛《うつく》しき我《あ》が那邇妹命《なにものみこと》……そなたを子独りと引き替えに喪うとは――」
嘆く伊邪那岐の手には、今までに見たこともないような美しい十拳の剣が。
「父上様!!」
大きく振りかぶり、伊邪那岐は目の前の産まれたばかりの神を斬った。
鮮血が飛び散る。
美しい頸が、ごろりと転がった。
その血潮から、新たな神が現象した。
女神の最後の神威か。
御刀《みはかし》を滴り、指の間から滴る血からさえ、神が成った。
神殺しの剣からさえ、神が成った。
「伊邪那美……」
祖神の涙からさえ、神が成りませる。
それは、理に抗えぬ嘆きの夢だった。
流れるように、様々な神代の夢が押し寄せては消えて逝く。
遡る夢を、美咲は視続ける。