高天原異聞 ~女神の言伝~
そして、最後の夢が訪れる――これは、伊邪那美の夢。
暗闇の中で、女神は目を覚ます。
そこは、見渡す限りの草原だった。
大きな岩に身を預けていた女神は、ゆっくりと身を起こす。
先ほどまで、道の傍らで疲れて眠り込んでいたというのに。
広く寂しい世界が目の前に拓けている。
「此処は――」
黄泉路の半ばで、これこそが夢か。
だが、先ほどまでの微睡みの中、不可思議な夢を視た。
此処ではない、何処か別の世界の、別の時代に生きる夢だ。
そして、そこにも自分の愛しい対の命がいた。
只人として出逢い、愛し、愛された。
夢のような幸せな時間。
ただ寄り添い、空を見上げているだけで、全てが満ち足りていた。
神威も神気も――記憶さえ持たぬのに、愛おしかった。
ずっと、お傍にいたかった。
許されぬと、心の何処かではわかっていたのに。
あれは、来たる世での夢か。
ならば、ずいぶん永く待つことになりそうだ。
神去る自分は、黄泉国に降らねばならない。
先ほどまでの幸せな夢の名残が、胸の痛みを募らせる。
「ああ、愛《うつく》しき我《あ》が那勢命《なせのみこと》」
愛しい背の君を恋う涙が、暗闇に染まる大地に落ちた。
すると、不思議なことに、暗闇によって隠されていた大地が、草々が、色を取り戻した。
「なんと不思議なこと。これならば闇も怖くない。黄泉路への旅も迷うこともあるまい」
月も滲んで、まるで別れを惜しむよう。
女神は静かに立ち上がる。
そして、歩き出した。
何度も何度も振り返りながら。
自分は夢を視続けるだろう。
愛しい背の君とともに、豊葦原で生きる夢を。
「ああ、伊邪那岐様。夢でならば咎められることもございますまい。この身は死して、黄泉国に降ろうとも、私の想いは微睡みの中の夢となり、貴方様を永久にお慕いし続けるでしょう」
女神の去った後に、涙が呼び水となって小さな湖ができた。
月を映すその湖は、黄泉国の源泉と繋がり、闇の主の知るところともなる。
だが、この後、女神が再びそこを訪れることはなかった。
そう――永遠に。
それは、終わりを告げる別れの夢だった。
「――」
涙が落ちる音で、美咲は我に返った。
遡る夢が、真実を知らしめた。
「伊邪那岐を慕う伊邪那美の夢が、根の堅州国を創ったと言うの……?」
「だからこそ、貴女様にしか終わらせられぬのです」
己貴が頷く。
たくさんの、愛を視た。
切なく、狂おしいほどの愛を。
焦がれ続ける想いを。
神代から今に至るまで。
それら全てが、伊邪那美の夢であるなら。
「では、終わらせなければ。夢に囚われ続けるたくさんの神々を……須勢理比売を解き放たなくては」
頬を零れた涙が、胸元の勾玉に落ちた。
淡い光が美咲を包み込んだ。
夢の終わりが、近づいていた。