高天原異聞 ~女神の言伝~

9 最後の願い


 闇からするりと出でたその時、眼前の光景に、暫し言霊を失う。
 ひっそりと在るその小さな湖で、かつて過ごした時間を思い出したからだ。
 美しき湖面の傍らには身を横たえられるほど大きな岩。
 そこに座り、月を眺め、湖を眺めた。
 それぞれの領界が隔てられてから、来ることもなくなった場所。
 永い時の流れさえ感じさせずに、静謐と寂寥をたたえ、そこに在る。
 何も変わらないような錯覚に囚われそうになる。
 故に今も、そこに在るべき姿を探す。

 かつて、在ることが当たり前だったその姿。
 そして、永い間見ることができなかったその姿を。

 だが、かつてその岩に座り、振り返って自分を迎えた姿はない。
 音を立てずに湖岸に近づく。
 湖と岩の間に身を潜めるようにうずくまるその姿を見つけて、

「夜《よる》……」

 思わず漏れた言霊に、はっとこちらに視線を向けるその容は。
 見る者を惑わすほどの美貌は些かも損なわれてはおらず。
 けれど、その眼差しは今は温かさを感じることができなかった。
 目合《まぐわ》うその時、堪えきれぬ何かが、一瞬だけ心を占める。
 その感情を何と呼べばいいのか。

「夜見《よみ》……」

 自分をそう呼ぶのは、今も昔も独りだけ。
 その特別な、互いだけが呼ぶ名を、許したことが過ちだったと、今も思いながら抗えぬ。
 傍らに膝をつき、驚いて自分を見上げる容を見下ろした。

「夜よ、またここに来るとは――今度は何を命じられた?」

「――そなたに関係なかろう」

 見る者を惑わせる美しい容が僅かに歪む。
 顔色が悪いと思うのは、月明かりのせいか。

「いや、ある。かつてそなたは高天原の命によりここに来た。今度は伊邪那美《いざなみ》を護るように言われたか」

「そなたに関係ないと――!?」

 言霊が途切れ、ゆらりと目の前の身体が傾ぐ。
 咄嗟に己の身を支えようと岩壁に伸ばした美しい手を、掴み、自分へと引き寄せる。
 いとも容易く、細くしなやかな身体が近づく。

「放せ!!」

 声音は鋭かったが、さほど力を入れているわけでもない自分の手を、振り払えぬほど憔悴しているように見える。

「私の手を振り払えぬほど弱るとは……何があった?」

「放せ――」

 唇を噛みしめ、腕を振り払えぬまま、それでも抵抗して背を向ける。
 その頑なな身体を、後ろから抱きすくめる。
 恐怖に身体を強ばらせ、逃れようとする身体を、それでも逃さぬようにきつく抱きしめる。

「放せっ!!」

「何もせぬ。そなたの陰の神気が根こそぎ奪われている。それでは、戻ることもできまい」

「――」

 本来、男神の神気は陽であり、女神の神気は陰である。
 しかし、この神はどちらをも併せ持つ。
 月が満ち欠けを繰り返すように、陰と陽が揺らぎながら共存する。
 女神の胎《はら》から産まれることなく、強大すぎる神威を与えられ現象した故か。
 そして自分も。
 男神でありながら、闇を司る故に、陰陽両方の神気を操り、力とすることができる。
 造化三神と並び立つほどの神威は、しかし、闇の領域でしか現象しない。

 どちらも不完全な神。

 だからこそ、心を寄り添わせたのか。
 どちらも相容れぬとわかっていたのに。

「そなたの愛しい母上様を取り上げることはせぬ。高天原は、父上様をお望みなのだ」

 以前とは違う冷たい声音に、やはりとも思う。
 かつて心を寄り添わせ、友と呼んだのは、全て偽り。
 高天原の命で、自分を――黄泉国を探りに来たのだ。
 己の口からそう言ったのを聞いたのに、それ以外の真実など何処にもないのに、何故自分の心は足掻くのか。
 認めてしまえば、楽になれるのに。

「ならば、そなたは私の敵ではない。暫し癒えるまでこうしていろ」

「――」

 闇の神威が陰の神気を奪われた身体に流れ込んでゆく。
 腕の中の細い身体は、陰の神気が満たされても、身を強ばらせたままだった。
 神気が安定してようやく、腕の力を解く。
 弾かれたように離れていく温もり。

「礼など言わぬ」

 振り返らずに、そう呟く。

「礼を言われたくてしたのではない」

 応える自分の言霊にも、温もりはなかった。

「神気を削ってまで、高天原の――天照《あまてらす》の命に従うな」

 振り返った眼差しは痛みと怒りに満ちていた。

「気遣う振りなどするな!! そなたが欲しいのは母上様であろう!?」

「そうだ――留まれぬ月を欲して何になる。太陽を恋うて、追い払われてもなお天を巡る月が、堕ちるわけもない」

 どちらもそれ以上言霊を探せぬまま、沈黙だけが流れる。

「――」

 目の前に在った存在が応えを諦め、不意に消え失せる。
 後に残るは、静謐と寂寥のみ。
 まるで全てが儚き夢のよう。
 覚めてしまえば、何も残らない。

 それでは、駄目なのだ。

 だからこそ。
 伊邪那美を手に入れねばならない。
 黄泉の國産みをせねばならぬのだ。
 そのために、あらゆる手を使った。
 永き時を費やし、待った。
 そして今も、待ち続けている。
 今更、止められるはずもない。
 全ては自分の国の為。
 忘れ去られ、忌まれる死の国の為。
 死の女神となってもなお命を産み出せる太古の女神が必要なのだ。

「……」

 もう一度、夢の名残を追って天を見上げる。
 闇の中に、淡く浮かぶ欠けた月。

 どちらも満たされることはないとわかっていながら。
 それでも、美しい月を抱いていたいと願ってしまう。

「愚かな……」

 感傷を振り払い、闇へと身を滑らす。
 戻らなければならない。
 月明かりさえない暗闇の場所へ。

 己の在るべき黄泉の国へ――





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