高天原異聞 ~女神の言伝~
「建御名方……事代……」
建御名方は、残る神威を振り絞り、須勢理比売の目の前まで降りてきて、言霊を発した。
――母上、神代でも、今生でも、ご期待に背きしこと申し訳ございませぬ……
「何を言う!? そなたは、私の唯一の希望であった!! いつでも、どんなときでも!!」
――もはやご期待に添えぬこと、お許しください
それでも、その容《かんばせ》は解き放たれたように穏やかだ。
「辛かったか……? 私の願いは、そなたには重荷だったか……?」
――いいえ、母上の喜びが私の喜びでした。それを叶えることが、どうして辛くありましょう?
辛かったのは、苦しかったのは、私がそれに見合う器ではなかったこと。最後まで、母上に豊葦原を取り戻してやれなかったことでございます……
再び宇受売の言霊が響く。
陽炎のように揺らめいて、神霊が消えて逝く。
須勢理比売に残ったのは、僅かな神気の名残だけ。
それさえも、消え去る。
「建御名方……建御名方……」
須勢理比売の瞳から、涙が留まることなく溢れる。
「須勢理、終わりだ」
静かな建速の言霊に、須勢理比売が切れるほどに唇を噛みしめた。
「いいや、まだだ――私が在る限り、天津神になぞ豊葦原を渡しはせぬ!!」
「須勢理、誓約は果たされたのだ」
「父上様にはわからぬ、私の気持ちなど!!」
美しい容を哀しみと怒りに染める須勢理比売を、建速は憐れむように見つめる。
「ああ、わからん。お前はいつも己の望みをはき違えるからな。手に入らぬものを欲しがり、本当に欲しいものを見逃す。お前の世界はもともとここなのだ。黙って己貴を婿とし、根の堅州国を統治すればよかったものを。豊葦原を欲しがり、そうして全てを失ったではないか。何故悟らんのだ」
「私の世界!? こんなおぞましい国が!? 父上様だとて豊葦原にいるではありませんか? 何故私は許されないのですか!? 兄上や姉上さえ豊葦原に在らせられるのに。何故私だけがこんな場所で我慢せねばならぬのですか!?」
美しい世界。
美しい豊葦原。
そこで暮らしたいと望んで何が悪い。
「父上様の母君とてそうであろう!? 黄泉国が厭わしくてならぬから逃げたのだろう!! 豊葦原が愛しくてならぬから、還りたいと願ったのだろう!? 何故私は――私だけが、駄目なのですか!?」
太古の女神は護られ、愛され、豊葦原に留まっている。
何故自分は駄目なのだ。
還りたいと願っては駄目なのか。
あの美しい世界に。
彩《あざ》やかな豊葦原に。
唯一変わらずに在り続け、自分を慰めてくれるものを求めて何が悪い。
「それでも許されぬのならば――私を殺してください。これ以上生きながらえるのは耐えられませぬ」
もっと早くこうしていればよかったのだ。
愚かな夢を見た。
愛しい者と豊葦原で生きる夢。
神代で夫を失ったように、今生でさえ息子を失った。
豊葦原も取り戻せない。
自分にはもう何もない。
所詮、叶うはずもないものを。
それでも望んだ報いか。
「よかろう。己貴亡き今、そなたにとって豊葦原しか執着するものがないというなら、今、此の時、此処で、俺が終わりにしてやろう――」
荒ぶる神が振り払った手の中に、美しい剣が顕れる。
須勢理比売は目を閉じた。
荒ぶる神の美しい神気を感じる。
猛々しい神威も。
終わりの時を、須勢理比売は待った。