高天原異聞 ~女神の言伝~

 愛しい女神の呼びかけに、失われた神気が揺らめき、神威が満ちる。
 だが、荒ぶる神の神威には到底及ばぬ。
 受け止めたことこそが奇蹟。
 荒ぶる神の神威が己貴の神威を弾き飛ばした。

「!?」

 衝撃が、胸を貫く。
 鮮血が飛び散った。
 過たず胸を射抜いた神威。
 背後にいる須勢理比売まで射抜かぬよう、己の身体で留めるのがやっとだった。

「己貴様!?」

 背後からの言霊に、うっすらと、己貴は咲った。

 その声音で、名を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
 その容《かんばせ》を見て、愛しげに自分を呼ぶ妻の声を、もう一度聞きたい。

 ゆっくりと、己貴は振り返った。

「須勢理……」

 言霊にのせられた甘美な響き。
 愛しい者の名を呼べる幸福に、己貴はつかの間我を忘れた。
 艶やかな髪。
 その容は、神代と何も変わらずに美しい――否、逢えなかった永い月日を経て一層美しく愛しく想う。
 今も昔も、自分を惹きつけて止まぬ、唯独りの女神。

 この時を、ずっと待っていた。

 この喜びの前には、痛みさえも霞むだろう。




 荒ぶる神の神威が、己貴の身体を貫き、己貴の神霊を縛る呪詛がその神威に絡みつく。
 恐ろしい勢いで、呪詛の紋様が荒ぶる神の神威を取り込み、呪詛の媒体である己貴の傷ついた身体を修復しようとする。
 神を滅ぼそうとする神威と変質した禁厭の呪詛が、己貴の神霊を苛む。

「――」

 己貴ががくりと膝をつく。

「己貴様!!」

 美咲が叫んだ。
 俯いたまま、己貴が問う。

「女神よ、終わりですか……」

「終わりです。根の堅州国は、今日、この時、滅びます」

「ありがとうございます。この時を、ずっと待っていました……」

 その時、須勢理比売は初めて気づいた。
 己貴を蝕む呪詛を。
 自分を縛りつける呪詛を。
 根の堅州国さえ変えてしまった、世界を覆い尽くす呪詛の紋様を。

「この呪詛は……」

「私が施した……そなたを生かすため、豊葦原に留めるために。根の堅州国を出ては生きられぬとわかってから、少しでも永くそなたを留めおくために」

 呪詛の紋様に気づいたことで、須勢理比売の中に呪詛から流れ込む命が感じられた。
 これは、己貴の命。
 同時に、死の眠りに就いた、神々の命でもあった。
 この呪詛は、神々の命を吸い取り、自分へと流れ込んでくる。
 だから、己貴は神去ったのか。
 だから、根の堅州国に神逐《かむやら》いされた神々は、あのように死の眠りに就いたのか。
 だから、この根の堅州国で生きられる神は、自分しかいないのか。

「私の、ため……?」

 須勢理比売の膝ががくりと落ちた。
 目の前の、黄泉返りした夫の語る言霊が、真実であると、わかってしまった。

「そうだ。いつでも、そなたのためだった。あの日、初めて目合ったあの日から、私はそなたのためなら何でもした。根の堅州国を出たのも、豊葦原を治めたのも、全てそなたのためだった」

 愛しげに、己貴は手を伸ばし、須勢理比売に触れようとする。

「たくさんの妻を得たが、それは、そなたを救う禁厭を施すためだった。そなたがそれを信じられずにいたこともわかっていた。最後には、触れさせてもくれなくなった。
 それでも、信じて欲しかった……」

 蒼白な容が、信じられぬように自分を見つめていた。
 己が罪を犯したことはわかっている。
 それでも、そうしても構わぬほどに愛したのは唯独りだけ。

「須勢理、そなたの願いなら、全て叶えてやる。そのためだけに黄泉返ったのだ。未だ豊葦原が欲しいのか? ならば、何としても叶えてやる。荒ぶる神を再び敵にしても、そうしてやる。そなたの望みを私に言ってくれ」

 愛おしい妻の頬に触れようと伸ばした手が、白くなよやかな手に遮られる。

「何もいらぬ……」

 静かな拒絶に、己貴の顔が歪む。
 自分を許せぬ妻の心が、この魂を切り刻んでいくようだ。

「須勢理……」

 縋るように呼びかけ、だが、それ以上の言霊を探せない。
 美しい妻の瞳から、ほろりと涙が零れた。
 それすらも愛おしい。
 さらなる拒絶の言霊を、己貴は覚悟した。
 だが。

「貴方様以外、何もいらぬ……」

 望外の願いに、己貴は目を見張った。

 ああ。
 その言霊のなんと甘美なこと。
 その声音のなんと艶美なこと。

 魂を震わせるその一言を聞くためだけに、今日この時まで待っていたのかもしれない。
 愛しい妻の細い身体をかき抱き、強く強く抱きしめる。

「須勢理……須勢理……私もそなた以外いらぬ。私の望みはいつでも一つだけ――そなただけだ」

 己貴を苛んでいた建速の神威が、不意に流れを変え、須勢理比売をも貫いた。

「!!」

「須勢理!?」

 美しい唇から、血が流れた。
 己貴は荒ぶる神の神威から須勢理比売を引き離そうとした。
 けれど、須勢理比売がそれを留める。
 流れを変えたのは、須勢理比売自身。
 建速の神威が呪詛を次々と打ち消していく。
 流れ込む命が、凄まじい速さで消えて逝く。
 世界を覆う呪詛の紋様が綻びて往くのは、誰の目にも明らかとなった。
 神々の命と共に、呪詛が消えて逝く――同時にそれは、根の堅州国の崩壊でもあった。

「これでよい……独りになるのは、もう嫌……今度こそ、離さないで」

 須勢理比売の手が、己貴の頬を引き寄せる。

「須勢理……」

 その眼差しは、かつてのように愛しさで満ちあふれていた。
 最後の紋様が打ち砕かれ、消えて逝くのと同時に、二柱の神の胸を貫く建速の神威が目映いほどの光を放った。
 暗闇の国が真昼の如く照らし出された。
 須勢理比売と己貴は、互いを見つめて微笑んだ。
 全てが満ち足りていた。

「永遠《とわ》に、貴方様は私の対の命《みこと》……」

「永遠に、そなたは私の対の命――須勢理。そなただけだ。いつでも」

 抱き合う神々は、そのまま封じられた。
 永久《とこしえ》に離れることなく。
 それこそが互いの願いだった。




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