高天原異聞 ~女神の言伝~

 突如美咲の中に顕れた神は、伊邪那美《いざなみ》ではなかった。
 美咲を憑坐《よりまし》として降りた気配はない。
 まるで魂を入れ替えたかのような顕れ方に、建速以外の神々も戸惑っていた。

「母上様は何処に!?」

 最も慌てたのは久久能智《くくのち》と石楠《いわくす》である。
 月神に意識のない美咲の身体に入り込まれてから、彼らは美咲の周囲に密かに結界を張っていた。
 それなのに、まるで結界など何の意味も成さぬように、美咲の意識は途絶え、別の神が顕れたのだ。
 そして、永く豊葦原を流離ってきた荒ぶる神にもわからぬ神。
 大抵の国津神なら、神気や神威によって、その名がわかる。
 だが、伊邪那美とは別の神であるのに、それ以外は建速にもわからなかった。
 神気さえ霞のように曖昧だ。

「母上様に仇なす者ではございません。母上様は、黄泉国に戻られるのを拒んでおられるだけです。戻れば、再び現世に還れぬことをご存じなのです。ですが、母上様が黄泉国へ往かねば、祖神伊邪那岐様の神霊は取り戻せますまい。それ故、私が代わりに参ります」

「そなたは、月読《つくよみ》を追い払った神だな」

「さようでございます」

「何故美咲の中にいる?」

「いずれおわかりになりましょう」

 女神が曖昧に微笑む。
 その微笑みは美しかった。
 建速は一つ息をついて、それ以上の追求を諦めた。

「今はそれ以上は語るつもりがないのだな――よかろう。美咲の――伊邪那美の身体を頼む。傷つけでもしたら許さん」

「お任せください。では、黄泉国へ。路往きは長うございます。憑坐を持たぬ建速様は、神気をお隠しくださいませ。神威も使ってはなりませぬ。闇の主に気づかれてしまいますので」

「わかった」

 千引の岩の間を通って、神々は黄泉国へと向かう路の先へと辿り着いた。
 やがて彼らの背後で静かに岩が閉じた。
 辺りは闇に包まれ、物音一つない。
 長く続く路のみが、暗闇の中浮かび上がるように見えるだけ。

「これが、黄泉路……」

 葺根の呟きに、女神が咲う。

「ここは神々が通る路にございます。祖神《おやがみ》伊邪那岐《いざなぎ》様がここを塞いだ故、祖神様以外、もう生きている神がこの路を降ることはございませんでした」

「では、我々が伊邪那岐に続いて黄泉路から戻る神になるだろう」

 建速の言霊に従い、神々が頷く。
 そして、宇受売を先頭に葺根、美咲の中の女神、建速、闇山津見、慎也の身体を運ぶ石楠、久久能智の順に歩き出した。


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