高天原異聞 ~女神の言伝~
4 大神の実
黄泉日狭女《よもつひさめ》が黄泉国の門を開いた時、そこには、闇の主が立っていた。
その横顔が、一瞬苦痛を堪えているようにも見えた。
「主様……?」
闇の主が日狭女を見る。
その足下には、神霊と生きた人間を憑坐《よりまし》とした神が意識のないまま横たわっている。
「生神《いきがみ》を連れておいでになったのですか――門の内へ入れることはできぬのに、何故……」
どちらも意識を失ってはいるが、神霊も憑坐も生きている。
それでも、主が自らここまで連れてくるとは、よほどのことだ。
「中へ戻れ、日狭女」
闇の主が隠す前に、日狭女が気づく。
「その神霊は、父上様ではありませぬか!?」
驚きとともに日狭女が横たわる神霊に駆け寄る。
しかし、触れる前に闇の主の腕に抱き込まれるように阻まれる。
「触れてはならぬ」
「よもや、父上様を殺すおつもりですか」
日狭女の言霊に、闇の主は美しい容を歪めるように咲う。
「まさか。我は黄泉大神《よもつおおかみ》。死を統べるとはいえ、神々を殺しはせぬ。古の誓約に従い、伊邪那美《いざなみ》を取り戻すだけだ」
「ですが――」
「日狭女。そなたが伊邪那美を恋うる様に、この黄泉国にも母神が必要なのだ。邪魔をしようなどとは夢思うな」
言霊が胸を突く。
「私達は黄泉神。大神で在られる貴方様の邪魔をすることなどできませぬ――」
日狭女は哀しげに呟く。
「疑ったわけではなく、案じているのだ。そなたたち黄泉神を、愛しむ故だ」
闇の主が、日狭女の頬にそっと触れる。
冷たそうに思えるその白い指が、温かいことを、すでに日狭女は知っている。
「私達はみな今のままで満足ですのに、何故貴方様はそれ以上を望むのですか」
闇の主は日狭女に微笑む。
その容《かんばせ》はどこまでも美しく、どこか寂しげでもあった。
「私が満ち足りぬからだ」
その言霊に、思わず、日狭女の瞳から涙が零れる。
「私達闇の僕《しもべ》だけでは、貴方様を満たすことはできぬのですね……」
それはとても、哀しいことだ。
「許せ、日狭女」
主の美しい唇が、日狭女の額にそっと触れた。
同時に、闇の神威が流れ込む。
それだけで、日狭女の内の神威が満ちる。
同時に、意識が遠ざかる。
優しく、闇の主の神威が日狭女を闇へ押し戻す。
「そなたは、黄泉神だが、伊邪那美の子でもある。暫し離れていろ」
「――」
闇に生まれし愛し子を最後まで突き放せない優しい方。
それなのに。
――黄泉国で唯独りきりの、おかわいそうな方でもあるのだ。
日狭女は思う。
この黄泉国を、黄泉神を、愛しむ故に、決して己を満たせずにいる。
諦めてくだされば楽になれるのに。
もといた場所に引き戻されながら、日狭女は抗わずに目を閉じた。