高天原異聞 ~女神の言伝~
建速《たけはや》が、不意に隣にいる女神が、静かに泣いているのに気づいた。
「何故泣く?」
「私ではありません。母上様が、泣いておいでなのです」
胸を押さえ、女神は美咲の身体で涙を流す。
「母上様。お泣きにならないでください。あれはもう過ぎしこと。今生で、背の君は母上様のお傍においでです。決して、神代のようにはなりませぬ」
その言霊は、女神が自身に言い聞かせるように哀しげに響いた。
食い入るように散る花を見て、遠い記憶を辿るように、ただ、女神は泣いていた。
――そこで泣いている女神は、もしや祖神《おやがみ》伊邪那美様ですか?
不意に、道返之大神《ちがえしのおおかみ》のように、声なき言霊――神話《しんわ》が、そこにいる神々に届いた。
「そう問う、貴女様はどなたですか?」
美咲の中の女神が問い返す。
桃の木が、風もないのにざわめいた。
そして、神気が木々を包み込む。
――我は祖神伊邪那岐命が幽世《かくしよ》から現世《うつしよ》へ戻る際、お助け申し上げた大神津実命《おおかむづみのみこと》。
ふわりと路の先に顕れたのは、薄桃色の衣を纏った、柔らかな曲線を描く美しい姿態の女神だった。
建速と美咲の前に跪く。
――祖神伊邪那美様とその末で在られる貴神《うずみこ》様に御挨拶致します。
「そなた、黄泉神か?」
――そうでもあり、そうではなく。我は幽世に在りては邪気を祓い生神《いきがみ》を救け、現世に在りては青人草を救ける者。祖神伊邪那岐様がそう命じし故に。
「その祖神伊邪那岐の神霊が闇の主に連れ去られた。我々は祖神の神霊を取り戻すべく千引の岩を通ってここまで来た。そなたは我らの救けになれるか?」
大神津実命の容が驚きを露わにする。
――我が祖神様の御為ならば、この身を何度捧げても悔いはございませぬ。言霊に誓いまする。
すっと立ち上がり、大神津実命は己の分身たる桃の木の一本に近づき、触れる。
触れられた桃の木の花が見る間に散り、代わりに薄桃色の美しい実をつけた。
その実は、清らかな神気と神威に満ちていた。
木の女神が振り返る。
――邪気を祓うこの実を口になさいませ。父上様の神霊を取り戻したなら、この場を思い描きください。望めばすぐにここへとお戻りになれましょう。
「有難い」
――勿体なき言霊。貴神《うずみこ》様。祖神様を必ずお救けください。
「言霊に誓う。伊邪那岐を連れて、必ずここに戻る」
神々は、神聖な実を口にした。
意識のない慎也にも、久久能智と石楠が食べさせた。
宇受売は、神田比古がまだ桃の実を持ったまま口にしていないことに気づいた。
「食べぬのか?」
困ったように、神田比古は宇受売を見た。
「俺は死神《ししん》だぞ。俺が口にしてもよいものか……」
そう言われて、宇受売は改めて神田比古が死神であることに気づかされた。
慌てて大神津実命を振り返る。
「大神津実様、死神はこの先には往けぬのですか? この実は邪気を祓うと言いますが」
大神津実命は、神田比古を見据えた。
それから、優しく咲った。
――ご安心なされませ。死神で在っても、この方は闇の神気も神威も感じませぬ。黄泉国に足を踏み入れたこともなければ、黄泉の食物を口にしたこともないのでしょう。ならば、死神であっても黄泉神とは言えませぬ。
それを聞いて、宇受売はほっとする。
神田比古も、ようやく桃の実を口にした。
「準備は整った。往くぞ」
建速の言霊に、神々が頷く。
大神津実命は、優雅に一礼した。
――神威を使い果たし、我は暫し休まねばなりませぬ。黄泉神を留める力も、暫し失うことでしょう。返りの道往きはお気をつけくださいませ。
「ここまで来たなら、後は神威を使って千引の岩まで戻れよう。礼を言うぞ、大神津実命。その名にふさわしき神威だ」
木に吸い込まれるように、桃の木の女神の姿は消えていった。
あとには、美しく散り続ける花びらのみ。
道往神を先導に、神々は再び黄泉路を降った。