高天原異聞 ~女神の言伝~
5 黄泉の夢
――私の名など好きに呼べ。
――では、夜見《よみ》。私はそう呼ぶ。我らが闇の領界、夜の世界を見る者故に。
――では、私はそなたを夜《よる》と呼ぶ。そなたを見つめるに相応しき名だ。
――よかろう。此処にいる間は、互いをそう呼ぼう。
――ああ。此処にいる間は、我らはただの夜見と夜。
――そう、何の柵もない、かけがえのない友だ。
目を閉じたまま、微睡みから戻る。
夢を見ていた。
遠い夢だ。
夢を操る自分が、夢を見るなど滑稽だ。
閉じていた目を開ける。
「――」
身体が重く、動かすのでさえ億劫だ。
神威を使いすぎたせいだ。
闇に身を預け、暫し暗闇を見据える。
寂寥と静寂が、闇の主たる自分には何よりの癒しとなる。
少し休めば、この身も癒える。
そのころには、きっと伊邪那岐の神霊を取り戻しに、女神が戻ってくるだろう。
裏切られてもなお恋うる夫のために、今度こそ返ってくる。
黄泉の國産みが成されれば、この黄泉国もかつての豊葦原のように神々の集う国となる。
死を迎えた人間が、安らかに次の生を得るまでの温かな褥となるような処になる。
死は苦痛ではない。
終わりでもない。
生と同じに、巡る環の中の半円に過ぎない。
それなのに、生者は死を恐れ、穢れとし、厭う。
現世での生など、死の解放に比べたらどれほどの価値があろう。
その証に、死者は争わない。
闇を恐れることもない。
柵もなく、我欲も執着も捨て去り、心穏やかに過ごせる。
その安息を。
魂は、憶えている。
だから、死を希《こいねが》う。
還りたいと。
この国での満ち足りた、まさに悠久の刻《とき》を。
魂が、知っている。
だから、死者は死者を喚ぶ。
戻ってこいと。
生こそが、苦痛に満ちている。
世に生まれ出る苦痛に皆泣いているではないか。
楽土を追われることを嘆き。
幸福を忘れ去ることを嘆き。
全てを奪われ生きたくないと、泣いているのだ。
だからこそ、神の力を失い、只人に成り果てた人間を、憐れむ。
だからこそ、死を生よりも確かなものとする女神の神威が欲しい。
どんな手を使ってでも、どれほど待とうとも、諦めることはない。
待てると思った。
自分を拒み続けても、いつかは諦めてくれるだろうと。
だが、どれほど待っても、女神は頑なだった。
自分と真向かおうとはしなかった。
そうして、待ち続けて、待つことにも慣れた時、不意に、別に心惹かれた。
自分と同じに孤独な神だった。
闇に在って、唯独りの孤高の神。
ただひっそりと、そこに在るだけで、よかった。
互いの孤独を、解り合い、分かち合い、ほんの少し、寄り添うだけで。
それ以上を望んではならぬと知っていたから。
自分が求めなければならないのは、國産みの神威を持つ、孕む力を持つ女神。
わかっていたのに。
惑わされた。
現象して、初めて、我を忘れるほど欲した。
人を惑わせるくせに、決して手が届かない。
わかっていたのに、どうして手を伸ばしてしまったのか。
冷たく、冴え冴えとして見えるのに、触れれば温かなあの肌に――
あの温かさ。
あの甘さを。
幻とするには、まだ刻《とき》が足らぬ。
意識が遠のく。
夢が、引いては満ちる波のように揺れ動く。
あの幻のような一時を、今も、忘れられない――