高天原異聞 ~女神の言伝~
高天原は、祖神である父神の神霊を取り戻したがっている。
だが、母神はいらぬと仰せだ。
すでに死の女神たる母神は、豊葦原にいてはならないと。
それ故、今は静観するという。
黄泉神は父神の神霊を捕らえはしたが、殺すことはない。
彼らが欲しいのはあくまでも母神のみ。
母神を黄泉国に取り戻せば、父神は無事に還ってくる。
そう読んでいるのだ。
だが、国津神は違う。
彼らは総力をあげて母神を護っている。
再び黄泉国に女神を奪われることはするまい。
母神が黄泉国から消え、現世に顕れるまで、永い永い時が過ぎた。
全てが女神を愛する。
命を孕むことのできる、美しい女神を。
それがとても、羨ましい。
自分を愛してくれるものは誰もいない。
どんなに焦がれても、全てを捧げて従っても、唯一の姉でさえ、自分を愛さない。
だからこそ、初めて寄り添った友をどれだけ大切に思っていたか。
静寂と静謐を湛えたあの場所で、気紛れに語らう時間がどれほど愛しかったか。
この男はそれすら知るまい。
すでに、全ては遠く過ぎ去った。
あの頃にはもう戻れない。
それなのに、なぜこうもこの存在に引き寄せられるのかわからない――
「……」
不意に、意識のないはずの身体が身動いだ。
唇が何かを呟いているようにも見えた。
そっと近づき、耳を近づける。
その言霊を、聞き取ろうとして。
「……」
夜、と。
唇はそう呟いた。
その密かな言霊に、胸を抉るような痛みが込み上げる。
痛み故に、美しい瞳から、堪えきれず涙が零れた。
何故、夢の中で追うのは、呼ぶ名は、自分なのに、目覚めれば別の女神を求めるのか。
心とともに、神威が揺らぐ。
深く眠り込んだはずの闇の主の閉じられた目蓋が僅かに震え、そっと美しい琥珀の瞳が自分を見上げる。
だが、その眼差しは、どこか虚ろで、憂いに満ちていた。
「これは……夢か……」
囁くような言霊が、美しい唇から漏れる。
弱った身体は、いまだ夢見心地だ。
「……そう、夢だ。現世で私が此処に来られるはずがない」
冷たい指先が涙に濡れた頬に触れる。
「夢ならば……」
その続きは、語らずともわかった。
「……」
だから、その指先に力が入り頬を引き寄せられる前に、自分から唇を重ねた。