高天原異聞 ~女神の言伝~
8 天と地の約束
黄泉路を引き返し、豊葦原に返っても、若き天津神の嘆きは留まることを知らなかった。
己の過ちにより失ってしまった愛しい者を取り戻す術がもうないと絶望しているのだ。
夜明け間近の静かな草原に、ただただ嗚咽が漏れる。
――泣くな、日嗣よ。そなたとともに在る我の心も張り裂けそうだ。
「黄泉国にも妻はおりませんでした。私にはもう、彼女を取り戻す術がないのです」
心優しき天孫の日嗣は、すでに狂気に呑まれかけていた。
それほどに、妻を愛しているのだ。
――否。そなたの妻は、我が妻とともに在る。我にはわかる。
「祖神様……?」
――この豊葦原の何処かに、いずれ黄泉返る。諦めることはない。
「ならば、私も黄泉返ります。禍つ霊の言霊が、私を殺してくれる。姉比売に感謝せねば。私も咲耶を追います」
――黄泉返りを選べば、そなたは神ではなくなる。それでもよいと?
「愛しい者が傍らにおらぬのに、死なぬこの身が何になりましょう。私の愚かさ故に神去った妻と今一度まみえるためならば、この命など捨て去ってもよい。彼女は、私の対の命なのだから」
妻を求める心が、自分と重なる。
憐れな天孫の日嗣は、自分の末でもある。
何故、我らは同じ過ちを繰り返してしまうのか。
――我とともに往くか? 我が妻がそなたの妻を連れて往った。ともに追えば、必ずや見いだせるであろう。
天孫の日嗣の瞳に、僅かに希望が宿る。
「ええ、ええ。仰せの通りに!」
――だが、永い道往きになるであろう。御治を拒めば、禍つ言霊がそなたの命数を食らいつくす。苦しみながら神去ることになる。
「すでに永劫の苦しみを味わっているのです。追って往けるのならば、苦しみも痛みも、喜びとなりましょう」
僅かな希望に縋らねばいられぬほど、壊れかけた心。
憐れだった。
それでも、その心を、神霊を利用してまで己のが妻を追う自分よりは、ましであろう。
今更に追っても、妻は自分を許すだろうか。
愚かな自分を、過ちを、全て忘れ去っていてくれたなら、再びともに在れるのか。
そんな不安が心をよぎる。
もしも許されるなら、神であることを捨て去り、只人として生きていい。
神威も神気も記憶も、永遠に捨て去って、ただ一途に、愛するためだけに傍に在ってみせる。
――ならば、ともに往こう。先の世で、愛しき妻を取り戻すのだ。
そして、それは確かに永い道往きとなった。