高天原異聞 ~女神の言伝~
「御子様、何処におわしたのですか、何故、祖神様のお身体に――」
宇受売の問いに、慎也の中の日嗣の御子は咲った。
「待てないと、言ったであろう? だから、追いかけたのだ。私も祖神伊邪那岐様の神威をお借りして、伊邪那美様と同じ手妻で現世に潜んでいたのだ。豊葦原に女神達が黄泉返るのを待って、我らも現世に現象した。祖神様の神霊を抜き取られた時点では、私は未だ目覚めることは叶わなかった。真名を喚ばれて、目覚めたのだ」
真っ直ぐに、天孫の日嗣――瓊瓊杵命が美咲の中の木之花咲耶比売をとらえた。
驚きで青ざめたかつての妻を見つめ、それから、その後ろにいる建速を見やる。
「我が祖神で在らせられる最後の貴神《うずみこ》、建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》に奏上致します。暫し、我が妻と語らう暇をお与え下さい」
「許す。祖神伊邪那岐の神霊を取り戻すまで、語らう暇はあろう。神代での悔いを改めるがいい」
建速はそう告げて美咲の身体から離れた。
慎也の中の瓊瓊杵が、美咲の中の木之花咲耶比売に近づく。
黄泉日狭女も闇山津見もすでに比売神から離れていた。
「瓊瓊杵様……」
「咲耶……」
愛しさを隠さずに目合《まぐわ》う二柱の神。
近づきたいのに、それ以上近づけぬようにどちらも動かない。
「木之花咲耶――それは、そなたの名ではなかったのか?」
瓊瓊杵が躊躇いがちに問う。
木之花咲耶比売は、何故そのようなことを問うのかと訝しみながらも答える。
「婚儀の際に、名を入れ替えたのです。姉からの祝いだと」
「だが、初めて出逢った時も、そなたは名を神阿多都比売と申した。私は、あの日大山津見命に会う予定だったので、その比売の名が木之花咲耶比売だと聞いていたのだ」
「姉に頼まれていたのです。あの日は自分の振りをしてほしいと。久方ぶりの姉と背の君の逢瀬の日だったのです。私の本当の名は、神鹿屋津《かむかやつ》比売、またの名は木之花知流比売――木之花咲耶比売は、本来、姉の名でございました」
「姉比売の連れ合いは、根の堅州国から来た八島士奴美《やしまじぬみ》殿か?」
「は、はい。何故それをご存じなのですか? 父でさえ知らなかったものを」
力無く、瓊瓊杵は嗤った。
「瓊瓊杵様……?」
「初めから、そう、聞けば良かったのだ。私は、何という愚か者なのだ……」
片手で顔を覆う瓊瓊杵は、苦悩を色濃く宿していた。
木之花咲耶比売は、戸惑いながらもさらに近づく。
「瓊瓊杵様……御治を拒まれたのですか……? 貴方様は天津神、しかも天孫の日嗣で在らせられるのに、神去られるなど……何故に……」
「そなたのいない世界に、何の意味がある? だから、そなたを取り戻すべく、黄泉路も越えた。すでにそなたがいないと聞かされ、どれほど私が絶望したか……それでも、諦めることなどできなかった。黄泉返るそなたを待つ暇さえ惜しかった。だから、わたしも祖神伊邪那岐様の神威を借りて、記憶も神威も失うことなくそなたを追ったのだ」
「ああ……何と言うことを……豊葦原を治める日嗣の御子様が私などを追って神去るなど、申し訳ありませぬ。天に対する不敬でございました。お許しください――」
「許しを乞うのは私の方だ。心ない言霊でそなたを傷つけた。そなたを失って、姉比売に会って、誤解だと気づいたのだ。どんなに自分の愚かさを悔いたことか――」
「もう十分です。私を追って下さったと聞いただけで十分ですのに」
「私を許してくれるのか?」
「滅相もございません。散る花のようにほんの一時しかお傍にいられなかった私こそお許しください。姉のように、強く、気高く、美しく在れればよかったものを。姉であれば、このようなことにならず貴方様をお幸せにできたのにと、いつも悔いておりました」
「何故、そのようなことを言う?」
瓊瓊杵が手を伸ばし、咲耶比売の頬をとらえる。
「私の中のそなたは、いつも咲く花のように美しかった。初めて出逢ったあの時から、私にはそなたしか目に入らなかった。だからこそ、そなたの姉にともにと言われても断ったのだ。
咲耶、逢いたかった……そなたに、とても逢いたかった……」
「ああ……瓊瓊杵様……」
後はもう、言霊にならなかった。
瓊瓊杵が木之花咲耶比売を引き寄せる。
初めて出逢った時のように、唇を奪い、逃げていかぬよう抱きしめる。
抱き合い、触れ合う二柱の神々はかつてのように幸福だった。