高天原異聞 ~女神の言伝~
2 死と記憶
世界が、自分から遠ざかっていく。
神々が、愛したものが、遠ざかっていく。
死の女神となった今でも、自分は豊葦原を、そこに住まう神々を、何より夫を、愛していた。
だから、持てる神威は全て、黄泉の外の様子を視る為に使った。
すでに天の領界は遙か彼方に去り、地の領界さえ、闇の領界と引き離されつつある。
やがて、自分は地上の様子さえ、感じ取れなくなってしまうだろう。
繋がっていた全ての世界が、引き裂かれ、引き離された。
世界を繋ぎ止めていた、自分達の心が、絆が、壊れてしまったから。
初めは、哀しみしかなかった。
愛しい方が、自分を置いて戻ってしまったことへの。
置いて戻るくらいなら、なぜ迎えに来たなどと言ったのか。
喜びが大きかっただけに、失望が、絶望が、より深く、自分を傷つける。
その傷を、未だに癒すことはできない。
閉ざされた扉の向こうから声をかける、黄泉大神にも心許すことができない。
かの神の目的は、黄泉の國産み。
だが、自分の対の命はあの方だけ。
あの方以外の神と交合うことなどできようはずもない。
それなのに、かの神は怒ることもなく、ただこの閉ざされた扉の前で声をかけては去って往く。
僅かに垣間見た美しい容の下で、優しげな言霊の裏で、何を考えているかわからぬ。
自分の対の命を、捜そうともせぬ。
それは、自分ではないのに。
無駄に過ぎてゆく時が、焦りを募らせる。
地上の様子を神威で視て、豊葦原を窺えば、地上は神々の嘆きと人間達の血で覆われていた。
自分が去ったことで、徐々に神々は豊葦原での力を弱めていた。
自分の産み出した神々の末から生まれる神々はとても弱く、儚かった。
弱き神威と神気しか持たぬ故、老いて、死を迎え、黄泉返りを繰り返す。
そうして、神気や神威すら失い、只人になっていく。
神であったことを忘れ、争い、奪い合い、殺し合い、そうして、大八洲は血と死に満ちた国となった。
自分が何よりも愛した美しい世界が、愛しい子供達が、穢れてゆく――
戻らねばならぬのに。
憐れな神々を、救わねばならぬのに。
今の自分には、できない。
最後の子を産むことで使い果たした神威は、黄泉国で満ちた。
闇の神威も手にした。
それでも、死神となったが故に、理に縛られ、豊葦原に還れない。
黄泉返りを選んだなら、記憶も、神気も、神威も手放さねばならなくなる。
それでは意味がない。
待たねばならない。
自分を、何も失わずに豊葦原に戻せる神が神去ってくるまで。
それまでは、微睡んでいよう。
微睡みの中でなら、自分は豊葦原に戻れる。
愛しいあの方のもとへ、子らのもとへ、寄り添うことができる。
いつか、現《うつつ》で、豊葦原に還る。
それだけが、唯一の癒しなのだ。