高天原異聞 ~女神の言伝~
温かなものに包まれていることを感じながら、慎也は目を開けた。
一番最初に視界に入ったのは、見知ったようでもあるのに、その神気と神威によって全く別人となった女の顔だった。
「山中、先生……?」
「いいえ、宇受売《うずめ》とお呼びください。祖神様」
答える声音も違って聞こえる。
もっと聞いていたいと思わせるような、深く響く、心地よい声。
「宇受売……?」
「はい、黄泉国での出来事をお伝えします。目を閉じていてくださいませ」
宇受売が慎也の頬を引き寄せると、額を合わせる。
巫女神の神気が揺らめき、神威が満ちた。
同時に、閉じた目の前に、映像が浮かび上がる。
「――これは」
倍速の映画を見るように、情報が流れ込んでくる。
根の堅州国の崩壊。
黄泉降り。
自分達の中にいた、瓊瓊杵《ににぎ》と木之花咲耶比売《このはなさくやひめ》。
そして、黄泉からの帰還。
「戻ってきたのか――」
「祖神様を取り戻し、無事豊葦原へ帰還致しました。祖神様、次は貴方様の番です。伊邪那美《いざなみ》様をお救いくださいませ」
宇受売の最後の言霊に、慎也は目を開ける。
そして、気づいた。
自分と宇受売が水の中にいることに。
宇受売の背後に見慣れた景色が見える。
学校のプールだ。
なぜと慎也が問う前に、巫女神が答えた。
「黄泉の穢れを落とすために、禊ぎが必要でした」
「美咲さん、美咲さんは!?」
「ここだ」
背後からの声に振り返ると、建速《たけはや》の大きな背中が見える。
大きな体躯に抱かれているのは美咲だ。
「美咲さん!!」
水をかきわけ、建速の前へ回ると、意識のない美咲が建速の腕の中にいる。
その身体を建速から奪うように引き寄せると、ぐったりした身体が水に沈みそうになり、慌てて頸に腕を回す。
仰け反った顔は青ざめて、死人のように唇にも血の気がない。
「咲耶比売が身体から出たからだ。神気も神威も足りない」
「俺は!? 美咲さんがそうなら、俺だってそうなるんじゃないのか!?」
「お前は死神《ししん》ではない。神去る瓊瓊杵に憑いてはいたが、生神《いきがみ》だから、平気なんだろう。咲耶比売も伊邪那美もともに死神だ。補い合っていたものがなくなったのだ。新たに補わねば、神去る」
「駄目だ!! 美咲さんは死なせない!!」
「当たり前だ。ここまで来て、黄泉国に奪い返されるなど冗談ではない。慎也、お前の神威を与えろ。八方陣を敷く。死神を留めるには、理を覆すほどの神威と神気が必要となる。俺達の神威と神気も使うがいい」
建速が美咲と慎也から離れる。
いつの間にいたのか、周囲には建速と宇受売の他に、葺根《ふきね》、久久能智《くくのち》、石楠《いわくす》、闇山津見《くらやまつみ》までも二人を取り囲んでいた。
建速の向かいには宇受売が、久久能智の向かいには葺根が、闇山津見の向かいには石楠が、というように、男神と女神が対になり、陣取る。
「天に風、地に水。東より始め、東北、西北、西、南西、南東にて、八柱の神を八方に陣する」
建速の言霊が響くとともに、神々の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
神気が隣り合う神々にまで伸び、繋がった。
そして、六角錐の底辺同士を重ねたように、神気に包まれた不可思議な陣が敷かれた。
水の中に立っていた慎也の身体が水の力で傾いだ。
水の神威により、水面に横たえられた美咲。
その上に覆い被さるように身体が持ち上げられた。
咄嗟に手と膝をつくと、水面に膜が張られたように沈まず、弾力を伴って体重を支えた。
水の中にいたのに、美咲の身体も自分の身体も濡れていない。
周りを見ると、半身を水に浸けたままの神々がこちらを見ていた。
男神は手の平を合わせ、女神は何故か手の甲同士を合わせている。
風の神を頂点とする陣の一角から、稲妻のように神威が流れ込む。
「うあっ!!」
雷に打たれたかのような衝撃。
だが、痛みは一瞬だけだった。
後には、痺れるように不思議な力が満ちる。
神の記憶を持たない自分にもわかる――これが、神威。
「どうすればいい?」
「交合えばいい。美咲が満ちるまで」
「はぁ!? ここでかよ!?」
「ここ以外のどこでする? 八方陣は我らの神威をお前に移せる完全な結界だ。神威を満たさねば美咲が死ぬぞ。それとも、他の奴らに交合えとでも言うつもりか」
その言霊にぎょっとする。
美咲が死ぬことも、自分以外の誰かに抱かれることも論外だ。
「くそっ、せめて、背中向けてろ」
建速が咲って背を向ける。
他の神々もそれに倣う。
しかし、背中を向けていようとも、いることには変わりない。
よりにもよって、屋外で、しかもすぐ傍に神々がいる場所で交合うなど、いくら他人に無関心な自分でも遠慮したい。
生真面目な美咲なら、きっともっと嫌がる。
目を覚ましたら絶対泣くだろう。
だが、このまま死なせるわけにはいかない。
やっと見つけたのだ。
ずっと捜していた。
ただひたすら、美咲という存在を。
心を向けられる存在を。
記憶など、なくていい。
神でなど、なくていい。
「美咲さん……戻ってきて」
それだけで、いい。
慎也は美咲の唇を己のそれで塞いだ。
いつもの反応がない。
唇は冷たく、死人のようで、ぞっとする。
開いた唇に舌を差し入れ、乱暴なほど口腔を蹂躙する。
触れ合ったところから、神威が流れ込む。
砂が水を吸い込むように手応えがないが、美咲が満ちるまで神威を送らねば、死んでしまう。
「ぅ……」
僅かな呻きに、安堵する。
生きている。
まだ間に合う。
ここに、傍に、いてくれる。
慎也は自分のシャツのボタンを外し、美咲のワンピースのボタンも外すと、肌を重ねてもう一度深くくちづける。
触れ合えば、ただ、愛しさが込み上げるだけだ。
死なせない。
絶対に。
慎也はひたすら、美咲を求めた。