高天原異聞 ~女神の言伝~

 慎也が幾度目ともわからぬほどの熱を放った時、八方陣が澄んだ響きを立てて壊れた。
 陣を覆っていた不思議な輝きが、細かな煌めきとなってゆっくりと降り注ぐ。
 金色の雨のように。
 今まで動かなかった美咲が、慎也の腕に触れた。

「……美咲さん?」

「……もう、大丈夫だから、離して……」

 素直に、慎也が離れる。
 美咲も身体を起こすと、右足首に引っかかっていた下着に気づいて慌てて身に付け直す。
 不思議なことに、あれほど交合ったのに、慎也が離れた途端、交わりの名残はなく、下腹にも汚れた感じがしない。
 あれが、普通のセックスではなく、神威を送るという行為だったからこそなのか。
 ただ、痺れるような熱が、身体を満たしている。
 あんなにも重く、動かなかった身体も今は動かせる。
 これが、神が交合うということなのだとしたら、伊邪那岐と伊邪那美が交合うことで様々な奇蹟を産み出したというのも嘘ではないのだ。
 現世の理をも覆す交合い。
 死をも引き戻すその神威に、ただただ圧倒される。

 もしも自分と慎也に神としての神威と記憶が戻ったら、世界はどうなるのだろう。

「美咲さん?」

 束の間、ぼんやりしていた美咲の前に、身支度を調えた慎也が映る。
 長い指が、美咲のワンピースの前ボタンを留めていく。

「じ、自分で――」

「いいから」

 声音が、少し怒ったようにも聞こえて、美咲はそれ以上抵抗できない。
 動いている慎也を見て、ようやく純粋な安堵が込み上げてくる。
 無事に、戻ってきたのだ。
 根の堅州国が崩壊してから、千引の岩のところまでの記憶しかない自分には、なぜ、目覚めて慎也とああいった状況になっていたのかさっぱりわからず、恐怖や羞恥しかなかったが、今は、動いている慎也が傍にいて、自分に触れているのだ。
 手を伸ばして頬に触れる。
 その感触も、今は泣きたいほどに懐かしい。
 ボタンを留め終わった慎也が、美咲に視線を合わせる。
 それすら、愛おしい。

「よかった……」

「全然よくない」

 やはり怒ったように言い捨てて、慎也が美咲を引き寄せて抱きしめる。

「し、慎也くん」

「全っ然よくないよ。目が覚めたら美咲さんが死にかけてるし、それが、俺を救けに黄泉国まで行ったせいだっていうし。何でそんな危ないことするかなあ。すっごい心臓に悪い」

 矢継ぎ早に言われて、美咲はわけもわからず戸惑う。

 ここは、自分が責められるところなのか?

「えぇっと……ごめん、なさい?」

「語尾が疑問形なのは、悪いって思ってない」

 思い知らせるかのように、慎也の腕に力が入り、さらに強く抱きしめられる。

「ちょ、慎也くん、痛い」

「俺の心臓は、もっと痛かった」

 きつく抱き込まれて顔も上げられないままの抗議も聞き入れてもらえない。

「すごい痛かった。美咲さんがこのまま目を覚まさなかったらって思ったら、痛くて、苦しくて、俺のほうが死にそうだった」

「私も、そう思ったから迎えに行ったの」

「俺のことなんかいいんだ!!」

 常ならぬ慎也の怒りを孕んだ声音に、美咲は驚く。

「俺をおいていくのだけは許せない。おいていかれるのだけは、駄目だ。約束して。俺をおいていかないって。俺より先に死ぬのだけは、絶対に認めない」

 慎也の脅えが伝わる。
 奪われるのを恐れるようにきつく抱きしめてはなさい慎也は、子供のように頼りなげで、必死だった。

「――おいていったりしない。ずっと一緒よ」

「ホントだよ。約束破りそうだったら、部屋に閉じ込めて、縛って、一生出さないから」

 物騒な物言いに、やりかねないと思いながらも美咲は頷く。

「約束する。するから、放して……」

 美咲の言葉に、渋々慎也は腕の力を緩める。
 それでも、拘束が緩まっただけで、全く放れてはいないのだが。

「さて、もういいか?」

 横からかかる声に、美咲ははっとしてそちらを向く。
 すっかり忘れていたが、神々が周囲を取り囲んでいたのだ。
 勿論、今の慎也とのやりとりなど筒抜けだ。
 未だ背を向けていてくれるのが、せめてもの救いだった。

「た、建速。ごめんなさい」

 建速が咲って振り返る。
 自分達は水面、しかし、神々はプールに身を浸して立っている。
 おかしな光景だった。

「無事ならいい。一旦アパートに戻ろう。話はそれからだ」

「そ、そうね。慎也くん、腕を放して」

「やだ」

 短く言い捨てて、慎也の腕が美咲の腹部に絡まり、指をしっかり組んでホールドする。

「し、慎也くん!?」

「絶対、やだ――」

 語尾が消え、背中に慎也の体重がかかる。
 慎也の顔が、美咲の肩に押しつけられる。

「えぇっ? 慎也くん、ちょっと」

「美咲、無理だ。意識がない」

 苦笑混じりの建速の声。
 慎也からの返答も反応もない。

「あんたを現世に戻すために、俺達の神威を受けたから、疲れたんだろう。しかも、死を覆すための神威だ。記憶もない人間の身で神威を受け取るのは相当な負担だったはずだ」

 意識がなくても、美咲を放そうとしない慎也に、建速が水の中を歩いて近づき、手を伸ばして触れる。

「仕方がない。このまま連れていく」

「え? どうや――」

 最後まで聞き終える前に、美咲は風を感じた。


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