高天原異聞 ~女神の言伝~
そして、視界がぐにゃりと揺らいだかと思ったら、次の瞬間にはもう、そこは美咲のアパートの中だった。
建速はベッドの上掛けを捲ると、美咲を抱きしめたままの慎也ごと軽々と持ち上げ、二人一緒にベッドに横たえた。慎也の腕が放れない以上、仕方がないことだが、美咲は羞恥でいたたまれなかった。
「これでいい」
「ご、ごめんね、建速」
「気にするな。伊邪那岐が伊邪那美しか眼中にないのは、神代から変わらん」
上掛けを掛けてやると、建速はベッドの端に腰掛け、美咲を見下ろす。
「永い道往きだった。もういつも通りの生活に戻れるが、今日は身体を休めたほうがいい。きっと、明日には、現世と幽世の時間の差違に戸惑うだろう」
確かに、永く辛い道往きだった。
建速の言霊を思い出し、美咲は、心の奥底に沈めたはずの哀しみが沸き上がるのをとめられなかった。
「建速……」
言いよどむ美咲に、建速は優しく先を促す。
「何だ、言いたいことがあるなら、言ってみろ」
「――伊邪那岐は、本当に伊邪那美を愛してた?」
その問いに、建速は一瞬だけ、虚をつかれたような表情を見せた。
「――そうでなければ、俺は現象していない。なぜそんなことを思った?」
「だって、黄泉で、おいていってしまったもの……」
言葉とともに思いが溢れ、涙が零れる。
あんなに呼んだのに。
泣いて縋ったのに。
振り返ることなく、行ってしまった。
忘れたいと願ったのに、哀しみが強すぎて、しこりのように心に残り、消えてくれない。
「それでも、また戻ってきた。もう一度迎えに往ったろう?」
「え?」
訝しげな美咲に、建速が小さく咲った。
「そうか、黄泉国では、咲耶比売だったからな」
「咲耶比売……?」
建速は美咲の頬に手を当て、屈み込むと額を合わせた。
「目を閉じろ。視せたほうが早い」
言われるままに目を閉じると、閉じた目蓋の裏に映像が浮かび上がる。
黄泉国に行けない自分の代わりに、顕れた木之花咲耶比売。
黄泉国で、黄泉日狭女が咲耶比売に告げた言霊。
――貴女様方が黄泉国を去られてから、父上様が再びおいでになったのです。
瓊瓊杵命は、祖神とともに追ってきたと言った。
戻ってきたの?
本当に、ここまで追ってきてくれたの?
でも、それは本当に私のため?
「……う、ぅ……」
堪えきれない嗚咽が漏れる。
建速が少し離れて、美咲の顔を覗き込む。
「なぜ泣く?」
「だって、わからないもの……」
慎也の気持ちを、疑うわけではない。
あからさまでひたむきな気持ちを、嬉しいとは思う。
だが、どうしても、慎也と伊邪那岐が重ならない。
同じなはずなのに、同じに思えない。
だから、怖い。
慎也が伊邪那岐の記憶を取り戻したなら、今向けられている愛情はそのまま続くのか。
自分が伊邪那美の記憶を取り戻したなら、裏切られた怒りのほうが勝るのではないか。
「……記憶なんていらない……このまま、思い出さずにいたい……」
「伊邪那岐を、許せなくなりそうで?」
「だって、思い出すのは、哀しいことや辛いことばかりだもの……嬉しいことや、楽しかったことが、思い出せない……」
幸せだったはずの記憶は、まるで朝方見る儚い夢のように僅かで、朧気だ。
代わりに込み上げてくるのは、哀しいことばかり。
ただ、一緒にいたいだけなのに。
愛しい気持ちだけを、憶えていたいのに。
あんなにも焦がれた想いを、今は思い出せない。
「それでも、俺達は思い出して欲しいんだ。あんたに、全てを」
建速の指が、美咲の涙を優しく拭う。
「ずっとあんたを捜していた。気の遠くなるほど、永い時の中を。俺達豊葦原の国津神は、全て、母なる伊邪那美を恋うる命《みこと》だ。あんたを、心から愛している。その想いは、伊邪那岐にも劣らん」
そうして、建速の唇が、美咲のそれを優しく塞いだ。
温かな想いを移すような、優しいくちづけだった。
そこに、純粋な労りしかなかったからこそ、重ねるだけの優しいくちづけを、美咲は黙って受け入れた。
「もう眠れ。眠って起きたら、きっと哀しいことは忘れている」
唇が離れて、建速がそう呟くのが聞こえた。
「目が覚めたら、忘れて、許してあげられるかしら……」
言いながら、徐々に意識が遠のいていく。
急激な睡魔に、抗うことができない。
「許せないなら、無理に許すことはない」
最後に憶えているのは、頬を撫でる優しい手の温もりと。
「それでも、許したいと思う心が少しでも在るなら――いつか、許してやれ」
不思議な言霊だけ。