高天原異聞 ~女神の言伝~
7 女神の夢
――瓊瓊杵《ににぎ》様……瓊瓊杵様、何故ですか……貴方様を、貴方様だけをお待ちしておりましたのに……
呻くように呟いて、木之花咲耶比売《このはなさくやひめ》は跪いた。
痛みの間隔が、徐々に速くなっている。
すでに破水した。
戸を閉ざし、土で塗り込めた産屋の中で、咲耶比売は独り祈る。
――降りしませ、炎の御子。
咲耶比売は國産みの女神が最後に産んだ火神を召還する。
きんと、大気を震わせ、空に火柱があがる。
真紅に輝く炎の中に、ゆらりと顕れたのは、なよやかで艶めかしい女神だった。
その美しさに、咲耶比売は一瞬痛みを忘れた。
――何を望むか、国津神の比売神。
現身《うつしみ》を持たぬ女神の不思議な響きの言霊が届く。
――誓約を。我の産む御子は、天津神である、天孫の日嗣、瓊瓊杵様の末であると、証立てを。
――ならばそなたは、炎の洗礼を受けねばならぬ。我が母の神気を、命《みこと》を焼き尽くすほどのこの炎を、国津神であるそなたが耐えられるとは思えぬ。
――いいえ! 私の子が天津神の子でなければ、無事に産まれることは御座いますまい。天津神の子であるなら、天孫の日嗣の末であるなら、炎は我が子を傷つけませぬ。どうか、誓約を!!
痛みが強くなる中、咲耶比売は必死に言霊を継ぐ。
憐れむように、炎の神は比売神を見つめた。
――よかろう。ならば、我が炎の洗礼を受けるがよい。
咲耶比売が褥に倒れ込む。
炎が、産屋を包み込んだ。
――耐えよ、比売神。
そうして、浄化の炎が咲耶比売の身体を包み込んだ。
凄まじい絶叫が、響き渡った。
産屋から突如あがった炎に、姉比売と国津神々が駆けつける。
――何が起こったの!? 咲耶、咲耶!!
生きたまま身を裂かれるような苦しみに満ちた絶叫が耳を打つ。
だが、内側から溢れるように吹き出す業火に姉比売も国津神も為す術がない。
産屋の屋根があっという間に崩れ落ちる。
――咲耶ぁ――――っ!!
姉比売の悲痛な叫びが大気を震わせる。
――姉比売様、あれを!!
国津神の指し示す方角を、姉比売は見る。
そして、そこに燃え上がる炎の中に美しくなよやかな神の姿を見る。
流された血の如く赤く輝く女神――火之迦具土命《ほのかぐつちのみこと》。
現身《うつしみ》を持たぬ美しい女神が、腕に抱いているのは、三柱の子であった。
それが、咲耶比売の産んだ御子であることは明らかだった。
炎の洗礼を受け、加護を得た三柱の赤子。
音もなく進み出た火神が姉比売とその背後に控える国津神に告げる。
――誓約は果たされた。天津神にも国津神にも何ら恥じることなどない。三柱の御子は確かに、天津神である天孫の日嗣の末。
火の神に抱かれし御子は、山津見の国津神の手に渡されても、三柱ともに健やかに眠っている。
その背後にいた咲耶比売が足取りも覚束ぬようにゆらりと進み出る。
――偽りを焼き尽くす炎の加護を受けし御子の名は、火照《ほでり》、火須勢理《ほすせり》、火遠理《ほおり》と致します。紛れもなく、天孫の日嗣、瓊瓊杵様の末なり。天津神も国津神もご照覧あれ!!
咲耶比売の叫びとともに、炎が全てを焼き尽くした。
残ったのは咲耶比売と、三柱の御子と、真実のみ――
命を懸けた誓約が果たされ、咲耶比売は微笑んだ。
そして、倒れた。
同時に、炎も熱も火神も消えた。
――咲耶!? ああ――咲耶、何があったというの、なぜこのようなことを!?
駆け寄った姉比売が倒れた妹比売を抱きしめる。
だが、咲耶比売の意識はなかった。
姉比売の腕の中で、咲耶比売は目を覚ます。
すでに炎はなく、見慣れた部屋の中にいる。
震える指先で姉比売の手に触れる。
自分を見下ろす蒼白な顔。
こぼれる涙で、愛しい姉の容がよく見えない。
凝らした目に映る己とよく似た絶望に満ちた表情は、これが別れだと、気づいてしまったから――?
それでも、必死で言霊を紡ぐ。
伝えねばならぬことがある。
そうでなければ、死にきれぬ。
――お姉様……あの方に伝えて……御子は、確かに貴方様の御子であったと。決して国津神の子では御座いませんと……
――そのように言われたのか? そなたの子が国津神の子であると?
――誤解を解いて……お姉様……私は、確かに証立てしました。伝えて、瓊瓊杵様に……お慕いするのは、全てを捧げたのは、後にも、先にも、日嗣の御子様のみと……瓊瓊杵様……貴方様だけです、瓊瓊杵様……
それが、最期の言霊だった。
ぱたりと、咲耶比売の手が落ちた。
姉比売の美しい容が、苦痛に歪む。
――あぁ……嘘……こんな……逝かないで、咲耶!! こんなの嘘!! 目を開けて、私を置いて、逝かないで――っ!!
姉比売の絶叫が、周囲を絶望へと染めていく。
国津神が比売神の死を嘆く。
大気が、空が、川が、海が、森が、山が、哀しみで荒れ狂う。
それは、かつて神々が母なる女神を喪った時と全く同じだった。
比売神が神去った。
この比売は、自分と同じだった。
産褥で神去り、その最期は炎を伴い、死してなお夫を愛しすぎていた。
そして彼女は黄泉路を降る。
この黄泉国にやって来る。
この女神ならば、自分の願いを叶えることができる。
仄暗い歓喜が満ちる。
永かった。
自分の願いを叶える女神が、やっと顕れた――