高天原異聞 ~女神の言伝~
「っ!!」
身体が墜ちるような激しい痙攣で、美咲は目を覚ました。
見慣れた天井。
外はうっすらと明るくなっている。
横には慎也がこちらを向いて眠っている。
夢だ。夢を見たのだ。
「――」
まるで炎の洗礼を受けたのは自分でもあるかのように熱く、喉が渇いていた。
薄闇の中でも、周りは見える。
そっとベッドから出て、冷蔵庫から水を出す。
グラスに並々と注いで一息に飲み干す。
だが、身体にこもる熱は取れず、もう一杯飲み干して、ようやく渇きが癒された。
ペットボトルを冷蔵庫にしまうと、またあたりは薄闇に包まれる。
しゃがみ込んだまま、美咲はしばらく動けなかった。
あれが、木之花咲耶比売だ。
伊邪那美が待ち望んだ、女神。
死んで、黄泉路を降るのを待っていた女神。
幸せになれるはずだったのに、なれなかった哀れな女神。
自分から離れて、別の憑坐に宿ったと聞いたのに、なぜ、未だに彼女の夢を見るのか。
この夢に、何の意味があるのか。
考えてもわからない。
そして、考えたくなかった。
夏休みの最後の週は過ぎて、もう新学期が始まる。
美咲も慎也もまた、いつも通りの日常へと戻るのだ。
夏休み最後の日々を慎也と国津神達と楽しく過ごし、あんなに幸せだったのに。
神代の記憶を、夢に見るのは辛かった。
そのほとんどが、幸せな夢ではないからだ。
嘆く女神の夢など見たくない。
今、幸せであればいいのに。
「……美咲さん?」
部屋から聞こえる慎也の声。
しゃがんだまま顔を向けると、慎也が身体を起こしていた。
美咲は慌てて立ち上がり、ベッドへと戻る。
「何してたの?」
「水を飲んでたの。目が覚めたら、喉が渇いて」
ベッドに座ると、薄闇の中慎也の顔が見える。
「こんなに指先が冷えてるのに」
慎也が美咲の手をとって、あいている手で頬に触れた。
その温かさに、美咲は訳もわからず慎也にしがみついた。
抱きしめ返す、力強い腕に、心から安堵する。
「何でもない。嫌な夢を見たの。それだけ」
「どんな夢?」
「……言いたくない」
言ったら、自分の醜さをさらけ出すことになる。
伊邪那岐に置き去りにされてもなお、豊葦原に還りたがり、自分を黄泉返らせることのできる女神が神去るのをずっと捜して、見張り、待っていたなんて。
こんな醜い自分を、知られたくない。
「ごめんね。まだ早いから寝ましょう」
動こうとした美咲は、思いの外強く美咲を抱きしめる慎也に、それ以上動けない。
「美咲さん、俺が前世の記憶を持ってなくて嫌じゃない?」
その問いに、美咲が驚く。
「どうして、そんなこと聞くの……?」
「思い出したくないから。俺、今、美咲さんと一緒にいられれば、それでいいんだ」
慎也の腕から力が抜け、美咲は身体を離して、慎也と向かい合う。
夜明け間近の室内は、カーテン越しでもすでに明るくなっていた。
いつもは飄々とした表情が、今は感情を消していた。
「伊邪那岐って、伊邪那美を置いて逃げたんだろ? そんな記憶なくていい。記憶なんかなくても、美咲さんを好きな気持ちは変わらない。俺なら、置いていかない。絶対に一人で逃げたりしない。伊邪那岐じゃない俺じゃ、ダメかな」
強く見据えられて、胸が痛む。
執着じみた想いに、愛しさと同時に切なさが募る。
そうだ。
慎也なら、自分を置いていったりはしない。
出逢ってから、いつだって大切にしてくれた。
決して無理強いせず、美咲の気持ちを優先してくれる。
いつだって、自分より美咲を護ろうとしてくれる。
それでもどこか、二人とも不安を拭えない。
自分達は幸せな結末を迎えた恋人同士なんかじゃなかった。
だからなのか。
何度想いを伝えて抱き合っても、どれほど傍にいても、もの足りぬように未だ互いを求めてしまうのは。
好きだというだけでは、幸福に浸れない。
常に哀しい結末の余韻を滲ませる。
こんなにも、好きなのに。
どうして簡単に揺らいでしまうのか。
そんな自分が嫌だった。
「記憶なんか、なくていい」
美咲は慎也の首に腕を絡めてもう一度しがみつく。
「美咲さん」
「何も憶えてなくていいわ。思い出さなくていい。ずっと傍にいて、好きでいてくれるだけでいいの」
思い出してしまったら、もうこのままではいられないような気がした。
だから、必死で互いを繋ぎ止めるように抱きしめた。
こんなにも愛しいのに、なぜ、いつも、儚く消えてしまうかのように、不安なのだろう。