高天原異聞 ~女神の言伝~
「――」
美咲の心の動揺とともに、風がざわめく。
木々が揺れる。
「母上様、心を静めてください。お傍に在る神々が、心痛めております」
咲耶比売の神気が揺らぐ。
それは、美咲の揺れる心に染み入るように伝わる。
穏やかな神気を感じ、美咲は八つ当たりのように咲耶比売に問いかけたことを恥じた。
「記憶を持たぬまま、神々と接するのは、不安でございましょう。同じご様子の父上様とも離れて、母上様の不安が増しているのがわかります。ですが、我々神々は、祖神である貴女様を愛おしく想い、お傍にいたいだけなのです。不安になることはございません。
母上様が、何を思って現世に戻られる決意をし、私を伴ったのか――その答えは、すでに母上様の中にあるのです。いずれ、刻《とき》が到れば、思い出すことになりましょう。それまでは心お健やかに、父上様とお過ごしくださいませ。何があろうと、父上様と母上様のお傍でお護り致します。国津神をお信じくださいませ」
穏やかな言霊に、美咲は夢の中でも、似たようなことを言われたと思い出した。
「夢でも、言いましたよね? 残された時間は――って。だったら、一緒にいられる時間は少ないってことですか」
「はい。人であっても、短い刻《とき》でございます。神たる我らには、恐ろしいほど刹那の刻《とき》でございましょう」
「なら、みんな、待つだけですか。私の記憶が戻るまで」
「ただ待つのではなく、悔いなく、生きたいのです。愛しい方とともに」
咲耶比売は微笑む。
「今生での、この憑坐の夫に瓊瓊杵様は入られました」
突然の告白に、美咲は驚く。
そうだ、綾は結婚しているのだ。
ならば、咲耶比売の夫である瓊瓊杵が、綾の夫に憑くのは当然のことなのかも知れない。
「そう、ですか――」
だが、美咲には何とも複雑な気分だった。
人間を憑坐として神が中に入るということは、その肉体を奪うということではないのか。
国津神のことは大好きだが、美里と莉子が全くの別人のようになってしまったのを目の当たりにしたので、自分に関わったために、彼女らの人生や生活が奪われてしまったような気がして、どこかいたたまれないのも本音なのだ。
「実は、ここに子がいるのです」
咲耶比売は幸せそうに下腹を押さえる。
「神代が過ぎ去った今、我々は憑坐なくして現世には現象できません。青人草の命の輝きには恐れ入るばかりです。世界は命に満ちあふれ、我々を受け入れられる憑坐は、神を身に宿しながら、なお我々神々に影響を与えています。
人間とは、神威も神気も失った我々の末裔。この存在もまた、我々国津神には愛おしみ、慈しむべきものです。憑坐は決して、不幸にはなりませぬ。ご安心ください」
美咲の物思いなど、咲耶比売にはお見通しのようだ。
「子の誕生を瓊瓊杵様とともに迎えたら、以前のように憑坐の中で眠り、人として生きていこうと思っております」
「え……」
「ですから、母上様と現世でお目にかかるのは、きっと僅かでございましょう。お会いできる内に、お礼を申し上げたかったのです」
「咲耶比売」
咲耶比売はベンチから立ち上がり、美咲の正面に立つ。
美咲も慌てて立ち上がった。
咲耶比売が、そっと美咲の手をとり、恭しく頭を下げる。
「私の我が儘を聞き届けてくださって、ありがとうございます。禍つ霊となった姉を救い、瓊瓊杵様と再び出逢わせてくださり、心より感謝致しております」
触れ合った手から伝わる、温かな感情。
馴染むように違和感なく感じられる神気。
ずっと一緒にいたのだ。
記憶がなくてもわかる。
この女神は、ずっと自分とともに愛しい夫を求め、捜し、生きてきた。
愛しさを重ね、哀しみを重ね、ただずっと、ともにいてくれた。
不意に、美咲は泣きたくなった。
「感謝なんて、される資格ないんです」
「母上様?」
「咲耶比売の願いを叶えるためだけに、したことではないんです。きっと、伊邪那美は――私は、自分のためにそうしたんです」
あの夢が伊邪那美の記憶ならば、自分は彼女を利用したのだ。
純粋な好意で、したわけではない。
それなのに、感謝されるなんて。
罪悪感に、胸が痛む。
美しい女神の心根に、自分は応えられるほど美しくはない。
「咲耶比売が死んだのだって、伊邪那美のせいかもしれない。伊邪那美は視ていました。黄泉国から、貴女を――」
直接手を下したわけではない。
だが、敢えて、視ていた。
自分と同じ運命を辿って、黄泉路を降るのを待っていた。
それは、見殺しにしたのと同じことではないのか。
「それでも、貴女様は我ら国津神の祖神様で在らせられます。お忘れくださいますな。貴女様なくして、我らは存在し得ないのです。私達は全て、貴女様から分かたれた命《みこと》。この国のあらゆる命を、この世界を、愛して止まぬもの。我ら山津見の国津神は、母上様の御帰還を永遠に言祝ぐでしょう」
美咲の物思いを咲耶比売は全て受け止め、包み込む。
限りない愛。
曇りない愛。
それが、国津神なのだ。
自分を愛して止まぬもの。
自分が愛して止まぬもの。
もしも女神の記憶があったなら、自分は何を伝えるだろう。
「今、お幸せですか……?」
「はい」
咲く花のように美しく、咲耶比売が咲う。
「神代の時よりも、ずっとずっと幸せです。それは、紛れもなく、貴女様が与えてくださったのです」
あまりにも幸せそうなので、美咲は、また泣きたくなった。