高天原異聞 ~女神の言伝~
10 人の世にて
美しい比売神が図書館の正面玄関を出ると、周囲の空気が変わった。
木々が、草花が、優しく輝く。
午後の日差しを受ける大気もまた、淡く輝く。
そして、脇の芝生に備え付けられたベンチに座る天津神が、比売神に気づいて咲う。
夫である天津神が立ち上がり、比売神のもとへと近づく。
麗しい一対の神々に、よりいっそう、世界が喜びに輝いた。
「お待たせ致しました」
「母上様とのお話は済んだのか」
「はい」
「では、戻ろう」
瓊瓊杵命《ににぎのみこと》が木之花咲耶比売《このはなさくやひめ》の肩を優しく抱いて歩き出す。
通り過ぎるごとに、周囲の木々が、草花が、優しく揺れる。
それは、豊葦原の国津神々の言祝ぎの証だった。
母神の帰還を祝うとともに、国津神々は、この比売神の帰還をも言祝いでいた。
母なる女神を失ってから、久しく国津神々は哀しみに沈んでいた。
その哀しみを和らげたのは、この比売神の誕生だった。
美しい二柱の比売神。
国津神々は、皆、この比売神を愛しんだ。
母神の神威を受け継ぐ麗しい女神達が、失われかけていた天と地の絆を再び結び合わせ、より確かなものにしてくれると信じていた。
だが、些細な誤解が、比売神達の運命をねじ曲げ、結局、神代は終わった。
国津神々はこの地に封じられ、神々にとってさえ永き時が流れた。
それでも、今生に至って、母神が黄泉返るとともに、比売神の片割れも戻ってきた。
国津神々は喜んだ。
神々の幸わいが、この豊葦原に再び還ってきたことを。
喜びを隠さない美しい世界に、天と地を結ぶ神々が寄り添い、歩いていく。
これこそが、まさに幸わいであった。
「国津神々が言祝いでいる。そなたの帰還を」
「勿体ないことでございます。神代では、何の努めも果たせませんでしたのに」
「そなたがそこに在ることこそが、国津神々と私の幸わいなのだ」
歩みを止めて、瓊瓊杵が咲耶比売と真向かう。
愛しさを隠さずに見つめる夫に、咲耶比売も微笑み返す。
堪えきれずに、瓊瓊杵は妻を引き寄せ、抱きしめる。
「瓊瓊杵様、外でございます。人の目もありましょう」
「見られても構わぬ。現世に在っても、我らは連れ合いではないか。人目を憚ることもない」
困ったような咲耶比売の言霊にも、瓊瓊杵は腕を解く気配がない。
「神代では、傍にいることができなかった。今生では、片時も離れたくないのだ。祖神様のように」
瓊瓊杵の言霊に、咲耶比売もまた夫を抱きしめ返す。
「今生こそ、決してそなたと離れまい。言霊に誓う」
「嬉しゅうございます――」
寄り添う二柱の神々。
優しい光がそれを取り囲み、美しい光景を創り上げる。
愛しい妻を取り戻し、やがて、子も生まれる。
神代で失った全てを取り戻した幸福に、天孫の日嗣は酔いしれる。
妻の憑坐は、子を宿せぬ身体であった。
だが、咲耶比売の神威により、子を宿らせた。
何より憑坐達も望んでいたからだ。
比売神と天孫の日嗣の憑坐が、不幸で在ってはならない。
二柱の神々は、ともにそう思っていた。
「次に黄泉返る時は、ともに往こう。黄泉国でも、ともに」
「はい」
愛しい妻の背後に見える景色。
神代とは違う、すでに神々を必要としない世界。
それでも、瓊瓊杵は豊葦原が愛おしかった。
全てが変わりゆき、何一つ同じもののない世界。
いずれ、この景色も変わる。
人の世が続く限り。
変わらないのは、人の営みだけ。
足早に過ぎ去る世界は、それでも――否、それだからこそ、愛おしい。
この刹那を、留めたいと思い、叶わぬ故に、いっそう恋うる。
愛しい世界に包まれながら、二柱の神々は家路に着いた。