高天原異聞 ~女神の言伝~
妊娠を機に、妻の憑坐の実家である斉藤家に越してきた若夫婦は、近所の住民と自然に挨拶を交わし、門扉をくぐった。
門扉をくぐり抜けて、不意に瓊瓊杵は立ち止まった。
その気配に、咲耶比売が振り返る。
「瓊瓊杵様?」
「何でもない。先に入っていろ。庭を見ていく。すぐに戻る」
優しく促す夫に微笑んで、咲耶比売は従った。
その姿が扉の向こうに消えると、程なく瓊瓊杵の周囲に光の輪が描かれる。
先ほどまでの穏やかな表情が、瓊瓊杵の容から消える。
目の前に、もう一つ、光の輪が顕れ、同時に神々しい気配が降り立つ。
それは、太陽の女神の神気であった。
「天照大御神《あまてらすおおみかみ》――」
呟く言霊は密かだった。
庭に敷かれた光の輪は結界でもあった。
ただならぬ神の気配が外に漏れぬよう。
だが、結界をもってしても、太陽の女神の神気や神威を隠すことはできない。
天孫の日嗣が神威を使い、さらなる結界を敷く。
二重に包まれた結界の中、美しき太陽の女神がその姿を完全に顕す。
染み一つない真珠のような光沢の白装束に、象牙色の肌が映える。
美しい容は、瓊瓊杵が高天原で最後に見たままに、ただ美しい。
どれほどの永い時を経てもなおいっそう麗しいばかりの太陽の女神は、己のが末裔を見据え、歓喜にうち震えていた。
「瓊瓊杵!!」
喜びに駆け寄ろうとする天照。
だが、天孫の日嗣は、それを制し、跪く。
「近づいてはなりませぬ。貴女様の輝きは、憑坐の身には強すぎます」
その冷静な言霊に、天照の喜びに満ちた容が僅かに翳る。
高天原に在ってさえ気づいた天孫の日嗣の懐かしい神気。
失ったと思っていた太陽の女神の末が再び今生に現象したことは、天津神にとっても慶事であった。
それなのに、天之宇受売《あめのうずめ》同様、天孫の日嗣は天津神の聖地高天原に戻ってこない。
待ちきれずに再び豊葦原に自ら降り立ったのに、天孫の日嗣は喜んでいる風でもない。
「瓊瓊杵よ、憑坐なぞに宿り、どうする気だ。何故高天原に戻らぬ。よもや、建速の側につくというのではあるまいな」
「誰にもつきませぬ。私はただ、妻とともに豊葦原で生きていきたいだけなのです」
「莫迦なことを!! そのような戯言をそなたの口から聞こうとは」
「戯言ではございません。天照様、どうぞ私達をそっとしておいてください。天降る際の私との誓約《うけい》を、お忘れですか?」
天孫の日嗣の言霊に、太陽の女神は目を見張る。
「瓊瓊杵――」
「『――これより後は、豊葦原は天孫の日嗣とその末が治める。天孫の末が治める限り、豊葦原に何事が在ろうとも高天原の干渉は許されぬ。高天原の天津神は豊葦原の存亡に関わることはできぬ』と」
「天孫の末など、もうおらぬではないか!?」
「いいえ。私の血に連なる末が、今も豊葦原に在るのです」
「それは、神ではない。すでに記憶も神威もなく、神気すら失い、只人と成り果てた」
「そうです。すでに神代ではなく、豊葦原も神々のものではない。そのように、時は過ぎたのです」
「瓊瓊杵――」
「祖神様の御霊とともに、私はずっと豊葦原を見ておりました。美しく、愛おしい世界です。そこに、我々神々はもういない。此処は、人間の世界となったのです」
「そなたは天孫の日嗣ぞ。豊葦原は、未だそなたのものなのだ」
「私のものだと仰るのならば、尚更、豊葦原への介入をおやめください。天津神には高天原がございましょう。ここはすでに、青人草の――人間の世界なのです。その理に従って、私も妻とともに、人として生きて往きます。そして、年老いて、死を迎え、再び黄泉返るでしょう」
「愚かな……そなたは、人のように愚かだ」
「愚かだからこそ、愛しいのです。だからこそ、記憶も神威も神気すら失ってなお、神を求め続けるのです。その愚かさが、何よりも愛おしい。故に、私達はその思いに応えたいのです」
太陽の女神の容が苦痛を堪えるように歪む。
かつて己の送り出した末が、決して天に戻らぬと悟りながらも認められず、言霊を募ろうとするも、天孫の日嗣の心を変えることはできないと思い知らされたのだから。
それでもなお、天の主《あるじ》は美しい。
「そなたを、往かせるのではなかった……」
天孫の日嗣の御子が咲う。
「いいえ。貴女様は正しきことを成されたのです。私は今もそう思うております。貴女様の成されることに、何一つ間違いなどございません。かつても、今も。これからもそうで在り続けると信じております」
それが、天孫の日嗣と太陽の女神が交わした、最後の言霊だった。