高天原異聞 ~女神の言伝~

 傍らで何かが動く気配で、咲耶比売は目を開けた。

「……」

 ベッドの中には、自分しかいない。

「瓊瓊杵様……」

 ネクタイを締め終えて、上着を着た男が振り返る。

「起きたのか」

 その姿に、愛しさが溢れてくる。
 夫である瓊瓊杵命が微笑みながら近づいてくる。
 ベッドの脇に座って、咲耶比売を優しく抱きしめた。

「まだ眠っているといい。子がいるから、眠くなるのだろう」

「ですが、お見送りもせずにいるところでした」

「よいのだ。とても安らかだったので、起こしたくなかった」

「はい、夢を見ていました。この憑坐達の出逢いの夢でした」

 憑坐の記憶には、愛しい想い出しかなかった。
 出逢ってすぐにつきあい始めた二人の恋が、愛に変わるのに時間は必要なかった。
 どちらも愛しさを隠さずに、諍いもほとんどなかった。
 幸福な時間を過ごしてきた憑坐達に降りられたことを感謝しなければ。

「この憑坐は、妻を本当に愛しているのだな。愛おしい想いが溢れて、私まで嬉しくなる」

 優しいくちづけが降りてくる。
 咲耶比売は幸せな気持ちでそれを受け入れる。
 幸福な時間。
 幸福な現実。
 憑坐達と同じように、自分達も幸せだった。

「もう往かねば」

 名残惜しげに瓊瓊杵が妻から離れる。

「いっていらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」

 穏やかに咲って、瓊瓊杵が扉の向こうに消える。
 咲耶比売は階段を下りる足音を目を閉じて聞いていた。
 階下で扉の開閉の音がした。
 そして、辺りはまた優しい沈黙に包まれる。

「……」

 咲耶比売はまた、穏やかな眠りの淵にいた。
 身籠もった現身《うつしみ》の身体は、よく眠くなる。
 だが、咲耶比売は、眠るのが好きだった。
 夢の中でなら、いつでも姉比売に会えるから。
 微睡みの中で、いつも、心は姉とともに在れる。
 だから、哀しむことなど何もないのだ。
 幸福な余韻に浸りながら、咲耶比売はもう一度横になり、微睡みの中に落ちていった。







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