高天原異聞 ~女神の言伝~
美しい木々に、花々に囲まれて、なお美しい山津見の比売神が在る。
ぬばたまのような濡れて煌めく瞳が、愛しげに世界を見つめていた。
咲耶比売は、姉比売の姿を見つけて、駆け寄る。
――お姉様、何処にいたの?
――あの方をお見送りしたの。根の堅州国に戻ってしまわれるから。
咲う比売神は、何処か寂しげに視えた。
咲耶比売は、これが夢だと気づく。
これはまだ、自分が瓊瓊杵様と出逢う前、名を取り替える前の、過ぎし世の夢。
そして、自分達は半身同士。
かつての姉の想いが伝わってきて、懐かしいと同時に切なくなる。
――お姉様、寂しいの? 一緒に往きたいと思っているの?
自分の不安を見透かすように、姉比売が咲う。
――私は何処にも往かないわ。ずっとそなたと、豊葦原にいるの。
そうだ。
姉は、この山津見の国津神を統べるのだ。
根の堅州国になど往くはずがない。
――よかった。私、少しあの方が怖かったの。お姉様を連れていってしまいそうで。
自分の言霊に、姉比売が咲う。
――あの方の、何を恐れるというの? 荒ぶる神の御子とは思えぬほどお優しい方よ。誰よりも私を想ってくださるわ。だからこそ、無理に私を根の堅州国に連れていこうと決してなさらない。私の我が儘を優しく受け止めてくださる――そのような方、八島士奴美様以外におられないわ。
そう語る姉比売の心は、すでに自分にはない。
姉比売は、ただ物思いに囚われて、愛しい背の君が去った後の美しくも虚ろな世界を見つめている。
きっと、留まって欲しいのだ。
あの方に。
此処に。
この、豊葦原に。
何故駄目なのだろう。
何故に、あの方は根の堅州国になど往かれるのか。
すでに、荒ぶる神が嫡妻である櫛名田比売を伴って根の堅州国へ去って永き時が流れた。
根の堅州国の女王となるべき須勢理比売が大国主とともに豊葦原を治める代わりに、根の堅州国に在らねばならぬというのか。
荒ぶる神の御子は、あの方だけではあるまい。
兄弟神の内の、何方《どなた》かが治めればよいのだ。
――あの方が、必ず根の堅州国に必要と言うわけではないのでしょう?
自分の問いかけに、姉比売は静かに頭を振る。
――優しい方だから、きっと皆から必要とされているわ。それに、国を治めるべき定めの方だもの。豊葦原は妹比売に譲って、根の堅州国を治めることになりそうだわ。
姉比売が幾度願っても頷いてはくれぬ、優しくて強い方。
――一緒に往こう、そなたがいてくれれば、私はそれでいい。
不意に、視界が切り替わる。
目の前の、この方は愛しい背の君――八島士奴美様。
そして、自分は今姉比売を通してこの方を見ている。
いつも笑みを絶やさぬと聞いていた優しい容《かんばせ》が、今は真剣に姉比売を捕らえている。
伸ばされたその手を、とりたがっている姉比売がいる。
だが、その手を伸ばせずに言霊を継ぐ。
――いいえ。貴方が留まって。だって、貴方は本来根の堅州国にいるべき方ではないでしょう? 八島士奴美――その名の通り、この大八島の御霊となるべき方。私とともに――『木之花咲耶比売』とともに、この豊葦原で山津見の国津神を治めてください。
――それはできぬ。すでに豊葦原は我が妹須勢理が大国主とともに治めている。妹とは、争えぬ。
その眼差しは、苦しみに満ちていた。
どこまでも優しい方。
だからこそ、愛したのだ。
全て捧げてもいいほど、愛したのは貴方だけ。
それなのに、何故、私達はともに在ることが出来なかったのだろう。
愛しさと同じだけ、哀しみが溢れてくる。
愚かな自分は何も視えていなかった。
自分の怒りや憎しみ、哀しみだけで、貴方の痛みを、苦しみを見逃した。
どれほど愛されていたか、気づけなかった。
どうすれば、自分は、貴方を救うことが出来たのだろう――
頬を伝う涙に気づいて、咲耶比売は目を開けた。
「――」
起き上がって辺りを見回しても、そこには誰もいない。
どんな名残もない。
それなのに、すでにいないはずの姉の心が、最後に伝わってきた。
自分が視る夢は全て、思い出の中の姉だけだったのに。
「お姉様……?」
ベッドの向かい側にあるドレッサーの鏡には、自分の姿が映る。
それは、憑坐の姿ではなく、神代の頃の自分だった。
姉比売とうり二つの、美しい容が、泣いて救けを求めているようにも見えた。
否――これは自分ではない。
美しいぬばたまの瞳が、じっと自分を見据えている――
「お姉様――」
思わず手を伸ばして、咲耶比売は我に返る。
鏡に映っているのは、憑坐の――坂崎綾の姿だけだった。
今のも、夢――?
「――」
有り得ぬはずの夢を視て、咲耶比売はどうしていいのかわからなくなった。